更新日:2008年7月17日(木)
特集
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プロフィール:1982年、沖縄県那覇市生まれ。沖縄県立開邦高校卒後、北海道大学に進学、法律を専攻。2005年から2006年まで中国吉林大学法学院へ留学。満州に留学した経験を生かして、卒論のテーマを「ソ連参戦後の対日賠償政策の変遷」とする。本稿の元とする論文である。2008年4月、沖縄タイムス社に入社。 編集部注:本稿は、原本にある脚注・表・図を省いて3回に分けて掲載する3回目。 全体構成 (上) 序章 問題の所存 第1節 問題関心 第2節 研究方法 第1章 ソ連対日参戦前夜−戦利品問題の発生− (中) 第2章 接収の開始と被害の発生 第1節 ソ連による接収活動 第2節 国民党とアメリカによる被害の算定 (1)国民党による被害調査 (2)ポーレー使節団による被害調査 (3)在満日本人団体による調査 (下) 第3章 接収活動に対する米中間の対応と国際会議での非難の応酬 第1節 米ソ間 第2節 中ソ間 結語 接収活動が東アジアに及ぼしたインパクト (下) 第3章 接収活動に対する米中間の対応と国際壇上での非難の応酬 第1節 米ソ間 アメリカの対日賠償政策が、日本の海外資産を現物賠償として戦争被害国に引き渡すことを柱としていたことは既に述べた。アメリカの外交文書を見る限り、アメリカがソ連軍による接収の意図を認知するのは8月8日のハリマンの電文であり、活動を認知するのは新聞と国府の情報供与によってである。その後米ソ間で接収の正当性が議論されるのは1946年6月以降であり、主に対日賠償政策の文脈においてである。一章で述べたとおり、バーンズが「ソ連が問題を提起した場合に限り」アメリカの立場を表明するとしたことは、「わが国の立場を表明しておかないと、ソ連側が占領地においては一方的に戦利品を接収する権利があると主張する恐れがある」と説明したハリマンの警告に対応した積極的なものではなかった。 1945年10月13日にニューヨークの新聞が、工業設備の運び出しを記事にする。11月14日に王世杰外交部長がロバートソン米代理大使に対して、事実の概要を説明する。17日には蒋介石の名でトルーマンに対し電文が打たれ、ソ連が国府軍の大連上陸をはじめ、国民党の入満を望んでいないことを挙げて、中ソ条約に違反していると糾弾した。対立構造の輪郭は一月末に重慶に立ち寄り、蒋介石と会談したハリマンの電文によって明らかとなった。ハリマンはこの中ソのやり取りを理解し、満州における門戸開放(Open Door)を求めるべくソ連に対して立場表明を行うべきだとしている。 工場設備の撤去・搬出を察知しながら沈黙を守ってきたアメリカも、ここでソ連に対し行動を起こすことを決意し、1946年2月9日バーンズが中ソ両国政府に送るように両国大使館宛に電文を送っている。 対日賠償の文脈では極東委員会(FEC: Far Eastern Committee)における対立が挙げられる。この委員会は前任である極東諮問委員会(FEAC: Far Eastern Advisory commission, 1945年10月30日にワシントンで第一回会合が開催)から発展したもので、1945年12月26日にモスクワで開催中の米英ソ三国外相会談で設置が決まったものである。米、ソ、英、中のほか、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピンの11カ国(1949年にビルマ、パキスタン)の代表から構成され、(1)日本管理に関する政策、原則、基準の決定、(2)SCAPの政策実施に関する審査、(3)上記参加国が合意した事項の審議を任務としていた。 1946年3月12日にはポーレー中間・総括報告に基づいて、賠償計画が極東委員会(FEC)にも送付され、賠償工場の指定とその管理については合意が成立したものの、日本国内から撤去した資産の配分比率については参加国間で意見の対立が続いた。バーンズの電文が送信された後、極東委員会においても米ソの対立があり、これが原因で中賠償の実行ができなかった。 ポーレーが在満資産調査の途中でパリ滞在のバーンズに送った電文の後、SWNCCは戦利品に関する国務省案SWNCC310(6月17日付)を7月12日に承認し、ソ連との意見調整を図ったが、対立は解消されなかった。7月26日、SWNCCは極東委員会に対して対日賠償問題に関する11カ国からなる国際委員会を8月15日までに開催しすることを提案した。9月5日になり、ソ連はSWNCC310の主要部分を拒否したうえで、国際会議開催については条件付で賛成する旨回答した。 極東委員会で議論されていた賠償の国別配分比率は上記の米ソ対立によって、容易に解決できなかったため、アメリカは委員会の決定を待たずに中間賠償を取り立てることを考慮し始めた。結局中間賠償は極東委員会の足並みがそろわぬまま、1947年4月3日FECアメリカ代表・マッコイが指令権を行使して実行に移される。 第2節 中ソ間 中華民国とソ連との関係においてこの問題が討議されるのは、駐華大使ペトロフがソ連軍撤退問題について交渉を行いたいと打診してきた10月1日以降である。 既に長春入りしていた軍事委員会東北行営(満州の接収を統括する国府の出先機関)に加え熊式輝と蒋経国を派遣した国府側は、ソ連軍当局との折衝を開始する。早速東北各省の接収時期や撤兵時期について意見が交換されたが、接収を行うべく派遣される予定であった国府軍の移送方法と上陸地点をめぐり双方の対立が続き、交渉は暗礁にのりあげた。 11月24日、ソ連軍占領軍総司令官マリノフスキーの経済顧問スラドコフスキーは、軍事委員会東北行営経済委員の張公権に対し、正式に接収提案文書を提出した。それによると満州の154の企業が列挙されており、中ソ共同経営への言及もなされていた。 それに対し張は12月4日、マリノフスキーとの会談の席上、日本企業の接収交渉はソ連軍の完全撤収を待って開始するべきであるとしたが、マリノフスキーは即時談判開始を主張した。12月7日にはスラドコフスキーは再度接収リストを提示し、満州の工業設備はソ連の「戦利品」とみなすべきである、とのコメントを付け加えた。それに対して張は、工業や鉱業設備は「戦利品」等に含めるべきでないと反論した。この関係は局面打開を目指して蒋経国がモスクワ入りし、スターリンと直接交渉を行った以降も変わらなかった。 ソ連はこれを政府間の外交折衝の場にも持ち出した。1月21日、駐華大使ペトロフは蒋介石と面談し、次のような主張をした。(1)国府が交付した「敵偽産業処理法」の効力が、関東軍に「協力した」日本の在満企業に及ぶことは認めない、(2)関東軍にコミットした企業は赤軍の戦利品であり、ソ連の資産である、(3)中ソ友好の文脈から、ソ連は中ソ合弁会社による企業の経営を提案し、上記企業の価値の半分を中国に譲与することに同意する、(4)スターリンはモスクワを訪れた蒋経国に対し、日本企業の一部を中国の所有とすることに同意した、(5)両国の利益の為にこの問題の速やかな解決を期待する。 しかし、このアプローチに対しても、国府は国際法および国際慣習により認められている戦利品の範囲をはるかに超えるとの主張を貫き、受け入れを拒否した。蒋介石はハリマンに対し、(1)日本の企業設備が戦利品であるとみなされた場合、それを全て撤去する権利は赤軍にある、(2)株式の共有が認められるなら、これらの設備を満州に残してもよい、(3)株式の共有についてソ連の持分は重工業51%、軽工業49%としたいといった提案に対しても蒋は、(1)中国国内法では外国人の中国産業支配は禁じられているので、ソ連の持ち株51%の提案には応じかねる、とソ連の株式保有自体に抵抗感を示した。 また、アメリカのマーシャルを交えた別の会談で、蒋は(1)満州にソ連軍がいる限り、ソ連との交渉を再開しない、(2)2月1日(ソ連軍の撤退期限)以降まで交渉を繰り延べたい、(3)日本企業に関する協定が成立しない限り、ソ連軍は撤退しないだろう、(4)圧力に負けて協定を結ぶより、ソ連の主張と向き合うことを望む、と述べている。 このように見てくると、現地交渉が外交問題に発展しても両国の対立は解消されなかったが、中ソの間には二つの見識の差異があることが分かる。一つは戦利品の解釈自体をめぐる対立であり、一つは撤兵問題と設備撤去との関係である。ソ連は撤兵問題を経済協力と関わらせて主張を展開しているが、国府側はまずソ連の撤兵を要求した。 国府側がアメリカに「物資の撤去よりもソ連の居座りが問題だ」と述べたように、国府にとっては先に撤兵ありきであった。ヤルタ、中ソ友好同盟条約の文脈から外れた「戦利品」問題に向き合うよりも、中ソ条約で「侵攻後三ヶ月以内に撤兵する」とされた撤兵事項の履行をソ連側に求めることを優先したのである。現地交渉はその後も続けられ、双方が多少の歩み寄りを見せたものの、全面的な解決には至らなかった。 ところで、この満州の戦利品・撤兵交渉は1946年5月、ソ連軍が満州から撤退を完了させることによって、何ら見るべき合意に達することなく消滅する。1945年8月7日にスターリンの発言によって突如沸き起こった「戦利品」とソ連の極東における経済的企図の問題は、中ソ関係の文脈ではソ軍の撤退によって自然消滅する。対日戦勝利の目標を基に保たれていた中ソ関係は、対日戦勝利と共に冷却化し、1953年の中ソ友好同盟条約の無効宣言に帰結する。これ以降、米中ソ各々、アジアにおいて新たな関係を模索することになる。 結語 接収活動が東アジアに及ぼしたインパクト 満州におけるソ軍の接収活動と、接収の正当性をめぐる国際対立を概観してきた。ソ連が満州で行った行動は、対日戦遂行の基で結束していた米中ソ関係を大きく変えるものだった。ここにおいて大戦期の大連合状態は終わったのである。 米ソ関係においては、アメリカとソ連の硬直化した関係がアジアにおいても形成され、冷戦時代の到来を招いた。しかし、その硬直化した状態を作り出した原因は米ソ双方にあった。太平洋戦争で日本から実質的被害を被っていないソ連が、アジアにおいてヤルタ密約の拡大解釈を行って国府に圧力をかけ、米中の賠償とは異なる「戦利品」の文脈から戦後処理を行おうとしたことが、米中側の不信感を招いたことは確かである。 一方で、アメリカは満州の日本資産を中国に「賠償品」として引き渡すことを対日賠償計画の柱としていただけに、ソ連による満州の一方的な破壊がアメリカのアジア戦略に与えた影響は大きいはずだった。それだけにソ連参戦前夜のスターリン発言に対し、宋がアメリカの介入を求めた時点で、米国は何らかの行動を起こしておくべきだった。 しかしヤルタ密約に基づいて行っていた満州の戦後処理を、米国は「中ソ二国間問題」として突き放してしまい、結果としてソ連の進出を未然に食い止める機会を逸してしまった。接収が終了した後にポーレーを派遣して被害の実態調査を行い、ソ連側に抗議したがソ連は「中ソ二国間によって解決されるべき問題」として譲らなかった。 参戦以前に採られたアメリカの「二国間問題」対応がソ連の接収という名においての満州進出を許し、後にソ連がアメリカに対抗する時の文句として使われ、回りまわってアメリカの賠償計画に影響を与えてしまったのである。 アダム・B・ウラムが満州におけるソ連の行動は「可能な限り占領期間をのばし、支配することであった」と述べているとおり、米ソの硬直化した関係を作り出した主たる原因はソ連にあった。そしてケナンの「ソ連行動の源泉」などに代表されるように、ソ連のこうした一方的行動が「拡張主義」と定義され、その後のアメリカの対ソ脅威論の中核を成した。しかし、アジアにおけるソ連の拡張主義的行動の形成を許した原因の一つは、実はソ連参戦前夜におけるアメリカの対応にあった。 米中関係においては、スターリンの戦利品接収発言についてアメリカが「ソ連が主張してきた場合に限り、抗議する」と後手に回ったことで、米中の一体感に更なる溝を生み出すことになった。 国府政権の戦争遂行能力や援助の有効性に対する疑問については大戦末期から在華大使館などから提起されていた。ヤルタ密約に対して蒋介石が「非常に失望した」と述べたことからも、中華民国を「大国」として保障していたアメリカがソ連と取引をしたことは中国の反発を招き、大戦末期に米中関係の関係は転換期を迎えるわけである。特にモスクワでの会談後「多国間協議」の開催を求めた宋に対し、アメリカが「中ソ二国間で解決するべき問題である」と突き放したことは米中間の溝をいっそう深くした。 前述の通り、アメリカは満州の「門戸開放」を求めていたが、積極的に介入することには慎重であった。対日賠償の文脈から見ると、アメリカのこの態度が自らの賠償政策の自壊を促し、米中関係の冷却化が例えば国府の支援自体を見直す動きにつながると考えられ、満州に関して中国は米の対応にあからさまな不満を抱くことはなかったものの、この米中の微妙な温度がその後も続いたことは否定できない。 中ソ関係においては、ヤルタ密約と中ソ友好同盟条約によってソ連の圧力をかわそうと試みた国府であったが、結局一連の接収活動によってその思惑は挫折することとなった。ソ連の姿勢は国府が予想していた以上に厳しく、常に満州での権益を拡張させようと動いていた。それに対し、地理的な要因や東北に軍を移動・展開できる能力を持ち合わせていなかった国府の状況に鑑みると、中国はソ連の侵攻に対応できる物理的な行動をとれる可能性はほとんどなかった。 香島はこの国府の鈍感な対応を対ソ楽観主義に基づくものだと分析しているが、たとえば参戦後の緩慢な国民党の対応策は楽観主義に基づくものではない。そもそも、ヤルタ密約自体が中国にとって寝耳に水であった以上、それ以降一貫して外交的に守勢に立たされていた国府が楽観的な対応をとれるはずはなく、そこにあったのは上述の地理的・力的要因に基づく受動的な外交姿勢だったのではないか。 中ソ条約に基づく参戦を期待せざるを得なかった以上、国府はソ連を信じ満州への侵攻を受け入れざるを得なかった。地理的な条件もあり、被害やソ軍の意図を把握するのに時間がかかり、それが香島の目には楽観主義に映ったのではないか。ここでは代替の説を唱えるほど資料を持ち合わせていないが、香島の結論に対しては腑に落ちない点がある。 ソ連の満州における一連の行動についてだが、極東における影響力確保という文脈においては接収には成功したが、経済的な支配を確立することには失敗したと言うことができる。なぜならこの後の中ソ経済合作をめぐる交渉は決裂し、最終的にそれが中ソ友好同盟条約の破棄につながるからである。対日参戦の大義名分として結実した中ソ条約は、日本の敗戦と共にその役割を終え、中ソ関係は新たな局面に入ることになる。 ところで、この行動を、ソ連の東北における影響力保持という文脈から見ると、「戦利品」の接収・搬出と経済合作は相反するものに見える。つまり影響力を確保しようとした地域において、なぜ経済インフラを壊すことをしたのかということである。 この謎を解く鍵の一つがソ連の「国防」である。在満ソ連軍司令官マリシノフスキーは経済インフラを撤去する理由として、自国の「国防」を挙げている。満州は常にロシアに脅威を与える勢力の根拠地であり続けた。平原地帯であり、満州に軍や補給地点を展開させれば容易にソ連領内へ進撃することが可能であるため、満州が再びソ連侵攻の基地とならぬために潜在的な工業力を撤去する必要がある、と。 極東において実質的な被害を被っていないので、「戦利品」理論を使って満州から施設を撤去したソ連だが、その背景には20世紀以降満州の支配権をめぐって戦争が繰り返されており、特に日本が進出した後は反ソ連の基地として機能したという歴史的経験を重く見ていたのだろうか。また、ハルピン−新京(現長春)−瀋陽−大連という幹線は破壊せず、それ以外の国境沿線を撤去しているところを見ると、一見無秩序的に行われた鉄道線路の撤去は、中ソ国境に軍を展開できないようにするために行われたものなのだろうか。 香島が指摘するように、満州の「反ソ化」を怖れたソ連の姿が垣間見えたが、手持ちの資料ではソ連軍の行動を解明することはできず、同将軍の言及と満州の置かれた地政学的な価値観の関係について、更に分析してみる必要がある。ソ連は満州で、「空間」の確保と「国防」、「戦利品」接収のバランスを国民党の反発を招かないようにとろうとしていたのかも知れない。 アメリカが策定していた戦後東アジア構想の文脈からは、ソ軍の一連の行動で移転可能な海外資産として注目されていた在満日本資産が被災国に渡される可能性がなくなり、「海外国有資産を戦争被害国に」という賠償プランは頓挫した。 余談ではあるが、対日賠償政策は前述の米中、中ソ関係の冷却と、アメリカ国内からも中間前渡計画の策定計画自体に対する疑念が生まれ、例えば1948年のケナンによる日本国内資産撤去中止勧告や、日本国内の経済状態を再調査するストライク調査団の編成などが行われ、対日占領政策も見直されていくことになる。 満州でソ連が行った行動は、中ソ、米ソの関係を悪化させた。そして第一章で指摘したとおり、アメリカはソ連の満州における影響力拡大を食い止める機会を逸してしまった。だが、アジアにおける米ソ対立の原因となり、日本の占領政策にも影響を与えたはずであるソ連の行動はどのような意図に基づいていたのか、まだ不明な点が多い。ロシア側の一次資料の収集、中、米両国の一次資料のさらなる読み込みを今後の課題としたい。 ≪おわり≫ |
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