更新日:2008年6月24日(火)
特集
|
||
プロフィール:1982年、沖縄県那覇市生まれ。沖縄県立開邦高校卒後、北海道大学に進学、法律を専攻。2005年から2006年まで中国吉林大学法学院へ留学。満州に留学した経験を生かして、卒論のテーマを「ソ連参戦後の対日賠償政策の変遷」とする。本稿の元とする論文である。2008年4月より沖縄タイムス社で記者に就く。 編集部注:本稿は、原本にある脚注・表・図を省いて3回に分けて掲載する2回目。 全体構成 (上) 序章 問題の所存 第1節 問題関心 第2節 研究方法 第1章 ソ連対日参戦前夜−戦利品問題の発生− (中) 第2章 接収の開始と被害の発生 第1節 ソ連による接収活動 第2節 国民党とアメリカによる被害の算定 (1)国民党による被害調査 (2)ポーレー使節団による被害調査 (3)在満日本人団体による調査 (下) 第3章 接収活動に対する米中間の対応と国際会議での非難の応酬 第1節 米ソ間 第2節 中ソ間 結語 接収活動が東アジアに及ぼしたインパクト 第2章 接収の開始と被害の発生 第1節 ソ連による接収の開始 ソ連はドイツ敗戦後の日本参戦というヤルタ会談の合意を守るべく、ドイツの敗戦後軍を直ちに東に移動させた。1945年8月には満州国との国境に150万の兵力を移動させて対日戦の準備を整えていた。一方日本側はソ連参戦の可能性を高いと予測しながらも、具体的な時期を予想することはできなかった。満州侵攻直前にソ連外務大臣モロトフは佐藤駐ソ日本大使を呼び、日ソ中立条約を延長する意思のないこと、8月9日以降ソ連軍と日本軍が戦闘状態に突入することを告げた。同大使はその旨を電報で日本へ送信したが結局伝わらず、関東軍は国境地帯で実際にソ連軍と交戦してソ連軍の満州侵攻を知ることになった。 当時関東軍は約75万の兵力を保持していたが、主力は日本本土や南方等に移動させていており、150万ものソ連の進軍を押さえる力はなかった。8月9日、ソ連軍は満州西部国境で抵抗を受けたものの短時間で満州を南北に分断し、関東軍の無力化に成功した。 8月11日に皇帝溥儀が首都新京市を脱出し、その翌日司令官山田乙三をはじめとする関東軍首脳も新京を離れた。また、同日大本営は「対ソ前面作戦の開始」を指令し、朝鮮の防衛を優先させた。これにより関東軍の当面の任務は皇土である朝鮮の防衛へと後退し、満州では朝鮮防衛の土台を構築する時間を稼ぐためソ連軍の進軍を遅らせることが同軍の目標となった。ソ連・満州国境地帯での防衛が不可能と判断した関東軍は、市街戦を想定して国境地帯から主要都市へ後退する。また、在留邦人の後送命令を同時に発令し、同日第一号列車が新京を出発した。 8月15日に天皇がラジオで無条件降伏を宣言した後、大本営はソ連と戦闘中の関東軍に対し停戦に向かうべき旨の指令を送ったが、内容は「各軍は別に命令するまで各々現在の任務を続行すべし。ただし積極的侵攻作戦を中止すべし」という曖昧なものであった。そのため、停戦が遅れて戦闘が続いた地域もあった。 8月16日に大本営は即時戦闘行為の中止と停戦交渉、武器の引渡等を命じた。しかし、その頃既にソ連軍はは朝鮮半島近くまで進出しており、通信網が破壊された状態で指令が十分に行き渡らず、戦闘が停止せずに損害を出した部隊も多かった。8月19日に関東軍とソ連軍との間に正式な停戦協定が成立し、一部無線不通などにより戦闘が継続した地域を除いて組織的な戦闘行為は停止した。 8月19日に空挺部隊が、20日にはマリノフスキー率いる機械化部隊が新京市(現長春市)に達した。22日にはソ連軍により関東軍司令部が接収されて満州国の統治機構は消滅し、これからソ連軍が撤退する1946年5月までソ連による占領統治が始まる。 この日本の無条件降伏により、ヤルタ密約で取り決められた「公約」すなわち対日参戦と連合国の共通目標であった打倒日本という目的が達成された。 ヤルタに基づく参戦義務を果たした以上、ソ連の極東における課題は満州に進出した後の事後処理だった。すなわちソ連は、参戦前のスターリン発言によって連合国間に生じたひずみと向き合う必要があった。アメリカとの関係で言えば、満州における「戦利品」接収問題、国民党との関係においては同じく「戦利品」問題と軍の撤兵時期、その後の経済・軍事面における関係の如何であった。国府との間に横たわっていた戦後処理問題は、8月14日に締結された中ソ友好同盟条約に記されており、国際関係の土俵においては領土的野心を抱かず、あくまで中国の主権を尊重する声明を発表している。 しかし1章で示したとおり、撤兵時期や大連港の処遇、鉄道とその沿線の管理権をめぐって中ソ両国はモスクワで激論を交わしており、戦後処理をめぐっても中ソ間で対立が起こることは必至であった。しかも、その後問題として取り上げられることになるソ連との経済合作(工場・炭鉱の共同管理)については中ソ条約に明記されておらず、参戦前にモスクワで討議された鉄道・沿線に点在する工場の管理も含めて、10月に両者が長春で会談を始めるまで待たねばならなかった。ソ連軍の接収活動はこうした中ソ関係がぎくしゃくしている中で起きた。 ソ連軍の接収の対象となったのは、銀行や民間企業の資産、鉄道レールや工作機械などの経済インフラである。 満州国における通貨発行業務を行っていた満州中央銀行(中銀)は8月20日に全ての営業が停止させられ、営業用に貯蓄してあった現金や民間企業から預かった資産(ダイヤモンド、金)はソ連軍当局によって没収されている。ピンインによればソ連軍が中銀から接収した貨幣は約7億円(撫順支店から接収した1.5億円を含む)であり、他の地方銀行からも8千万円近くを没収している。 また、ソ連占領地域内にあった日本企業はすべて終戦後直ちにソ連軍の統制化におかれ、資産、工場設備などの接収がおこなわれた。 接収の日時を記した一次資料は現在のところ発見できていない。ただ、満州重工業株式会社の総裁高碕達之助の手記から、接収の一端を垣間見ることはできる。高碕によると、1945年10月20日在住していた長春のソ連軍当局者から出頭を命じられ、日本軍の軍事活動に協力したことから満業所有資産の接収を正式に通告されている。その後、満業は日本軍に協力し、経済活動を行ってきたから、同社の財産は国有財産とみなされ、接収の対象になると通告されている。高碕の手記を見る限り、ソ連占領軍は満州に入った後、一呼吸おいてから満業に関して接収に関する正式な通告を行っている。その通告後、満業の工場、子会社は正式にソ連の管理下におかれ、ソ連軍当局者による工作機械等の接収が始まっている。また薛や国民党の資料によると、ソ連軍は終戦後に技術者を各地の工場に派遣し、発電や変電設備、発動機など没収する対象物を決めさせた後に撤去している。 鉄道レールについても接収・搬出が行われているが、これについても具体的な日時を記す資料は今のところ見つかっていない。ただ中国側の文献によると、終戦後ソ連軍は国境付近の鉄道路線1,500kmを撤去し、軌条、付属の機械設備もソ連領土に運んだことが記されている。国民党の刊行資料によるとチチハルで1946年の1月にかけてソ連軍による鉄道レールの撤去・ソ連国内への搬出が行われている。 第2節 国民党とアメリカによる被害の算定 前節で指摘したとおりソ連の工場設備の接収・撤去は多岐に及んだため、中国東北地方は大きな経済的打撃を被った。戦後復興に必要な資源・資材は圧倒的に不足したが、ソ連による接収の状況は日本人関係者の帰国が認められず、占領区における自由な報道が制限されたこともあり、なかなか外地へ伝わらなかった。 高碕の手記の中にあるように満州から日本に帰国した者によって実態が報告された例もあるが、具体的な被害事実の調査・把握は、国民党と1946年5月に中国東北部を視察したエドウィン・ポーレー(Edwin W. Pauley)賠償使節団によって行われた。 (1) 国民党による被害調査 ソ連の接収活動に対して、国府がとった対応は素早いものではなかった。モスクワでのスターリンの発言がわずか数行の電文によってではあるものの重慶に送信されていることは一章で報告した。それがソ連の厳しい態度を国府側に印象付け、ソ連参戦以前に中ソの友好関係が暗転しているのではという疑念を国府側にあたえたことは確かであろう。 しかし、接収が重慶から遠く離れた満州で起こったため、情報が伝わりにくかった地理的な要因と、そもそも中ソ条約に規定された撤兵時期が日本降伏後3週間以内という不明確なこともあり、国府は迅速な対応をする条件下におかれていなかった。付属協定「今後に日本国に対する共同作戦におけるソ連軍の中国東三省地域への侵入後のソ連軍最高司令官と中国行政当局との間の関係に関する協定」の第三条では「ソ連軍最高司令官と国民政府代表の連携を保持するために、国民政府が代表をソ連軍代表の下に派遣する」となっており、「敵が一掃された地域において」中国国内法に基づく行政機構を樹立することを明記した第二条を含めて国民党が具体的な措置を講ずるには、先ず敵を一掃する役割を担うソ連からの連絡が必要だった。従って、国府が何らかの行動を起こすには、ソ連の行動を待つ必要があった。 8月15日に日本降伏に伴う東北地方接収の指針が発表され、1ヵ月後の9月3日に熊式輝を、東北地方を管轄する東北行営の主任兼政務委員会委員委員に任命しているが、実際に派遣されるのはソ連から撤兵問題について話し合いたいという打診があった10月1日から遅れること同月12日である。 また9月3日に、重慶の米ソ両国大使館に覚書を送り、国民政府が日本の侵略によって被った重大なる損失の賠償にあてるため、中国にある日本の官民財産と日本人によって経営されていた事業を没収すると声明した。この中には、既にソ連軍の占領下にある日本資産も含まれる。しかしアメリカが10月11日異論のない旨回答してきたものの、ソ連大使館は回答を寄せなかった。 10月13日に熊輝式らによって発信された電文では、銀行、交通、工業はソ連の接収によってその機能が停止している旨が報告されている。さらに翌年3月18日から25日にかけて、撤去された機械類がソ連軍によってシベリアに輸送されていることが報告されている。 国民党の調査報告は次項にて説明するポーレー調査報告と比較する形で行われており、調査対象は主に電気、電信などのインフラ、鉄鋼・石炭の精製設備などである。 (2) ポーレー使節団による被害調査 ポーレーの被害調査を報告する前に、彼が派遣されるに至った経緯と彼の賠償論について報告したい。 ソ連の接収活動については、対日賠償政策の文脈からアメリカも強い関心を持っていた。その理由はアメリカが日本の在外資産を賠償物として戦争被害国に引き渡す賠償計画を練っていたためであり、戦前に日本が多額の資金を投入して開発した中国東北部のインフラは格好の賠償物としてアメリカの目に映ったからである。 アメリカは1943年から日本の敗戦をにらんで対日賠償計画・戦後東アジア政策の策定を始めた。対日賠償については途中日本国内の産業も対象にするか否かで国務省と財務省の間で対立はあったものの、日本が海外に所有している現物官有資産を対象とすることを政策の基本方針としていた。 1944年12月に設立された国務陸海軍三省調整委員会(SWNCC)が45年4月に策定したSWNCC150(Politico-Military Problems in the Far East: United States Initial Post-Defeat Policy Relating to Japan, SWNCC150)とポツダム宣言によって戦後の対日賠償の基本方針が決定したが、その具体化・実施については既に対独賠償を手がけていたエドウィン・W・ポーレー(Edwin W. Pauley)に委ねられた。1945年9月に対独賠償に関する最終報告を提出したポーレーに対し、トルーマンは引き続き対日賠償を担当するように命じた。 ポーレーは任命後に発表した声明で、東アジア全域が日本によって破壊されたことを強調した。彼の賠償スタンスは戦争被災国の復興を日本の復興よりも優先させて行うというものであった。真珠湾攻撃4周年記念日に当たる1945年12月7日に発表されたポーレー中間報告は、在外日本資産はもちろんのこと、日本国内からも産業設備を撤去して被害国へ引き渡すことが記されていた。 ポーレーが発表した対日賠償についての中間報告は、発表後直ちにSWNCCに回覧され、中間賠償計画制定に向けての準備が行われた。1946年3月12日にはポーレー中間・総括報告に基づく賠償計画が極東委員会(FEC)にも送付され、検討されている。FECはポーレー報告に基づき日本国内の現物賠償対象物の搬出を行うための中間賠償計画の策定に臨み、5月13日以降、部門別に分けられた決定を行っていく。 この中でポーレーは使節団を組織し、満州を視察する。中間報告を提出したポーレーに対し、大統領は更に満州における日本財産の実情調査を求め、ポーレーは1946年4月30日に調査団を組織した。来日したポーレーは5月11日にマッカーサーを訪問し、日本財産を調査するにあたり、特に朝鮮半島と満州を調査することの重要性を挙げている。 ソウルに事務所を置いて、朝鮮半島の視察を終えたポーレーは5月25日に南京で中国政府と会談し、瀋陽に事務所を置いて撫順、遼陽、鞍山、本渓湖、錦州、北票、長春、吉林、ハルビン、牡丹江の工場鉱山を視察した。中国共産党もこの視察には便宜を供与したが、共産党の支配地域である安東の視察は拒否された。使節団は7月10日に北平に移り大連の視察を要求したが、これは大連を占領しているソ連軍に拒否された。同月15日に東京に移り、20日にワシントンに到着し、19日にヨーロッパを経由して帰国したポーレーと合流し、22日にトルーマンに報告書を提出している。 この報告によると、電力分野で約2億ドル、石炭分野で5千万ドル、鉄鋼分野で1億3千万ドル、鉄道インフラ分野で2億2千万ドルに相当する被害が報告されている。各分野が失った能力(終戦以前との比較)は電力分野が71%、石炭分野が90%、鉄鋼分野が50‐100%、鉄道インフラ分野が50‐100%となっている。1945年における日本の対満州投資額は120億円で、ソ連軍は1945年8月18日に奉天、20日に長春に入って食料その他の没収を組織的に行い、9月上旬意向設備の選択撤去を開始し、12月の撤去完了予定日までに撤去を完了しようと試みた。撤去された設備は、発電機、変電気、電動機、試験設備、実験所、病院などで、工作機械は新設された新型機械に限って撤去している。鉱山では排水機の撤去により鉱山が水没した結果、石炭生産能力が低下したことが報告された。 またソ連軍は満州所在の諸銀行から300万ドルに相当する金塊と5億元以上を没収し、100億元にのぼる占領通貨を発行し、物資の買い付けに当てていることも報告されている。 このポーレー被害調査は、パリで開かれていた外相会談に出席しているバーンズ国務長官に報告されている。この報告ではソ連の設備撤去は20億ドル超に及び、同地域の産業に壊滅的な打撃を与え、復興を遅らせているとの調査結果に言及し、当時会談で問題となっていたイタリア賠償問題についてのソ連の主張に対して反駁するように求めている。 (パリ外相会談におけるソ連の主張についての)報告を見る限り、アメリカが直面している一つの問題がイタリア賠償問題に関するソ連の主張だろう。私はちょうど満州の調査を終え帰国したが、満州でソ連は20億ドルに上る産業設備を計画的に撤去し、搬出を行っている。ソ連はこの行為を戦利品の文脈で正当化できると主張している。しかし、実質的被害を被っていないソ連が、我々が将来賠償取立てを計画している地区から優先的に設備を撤去しようとするこのやり方は日本においても、そして当然の如く中国(満州)においても行われるべきではない。(中略) (イタリアにおいても同じであり、イタリアから実質的被害を被っていないソ連が撤去する権利はなく)、イタリアにおける賠償の4分の3はアメリカとイギリスに帰属するべきであり、上述のソ連の解釈に問題があることは明らかである。 (3) 在満日本人団体による調査 満州に残っている在満経済人を中心に組織された東北工業会および日僑善後連絡所(香島の本では、東北日僑難民連絡本部)も被害額を調査していることが中国側の文献で確認できる。この団体のメンバーや結成された日時については、中華民国の刊行資料で確認することができる。しかし結成された目的やその他の活動記録、解散時期については不明である。この報告によれば、電力分野で約2億1千万ドル、石炭分野で4千4百万ドル、鉄鋼分野で2億ドル、鉄道インフラ分野で1億9千万ドルに相当する被害が報告されている。各分野が失った能力(終戦以前との比較)は電力分野が60%、石炭分野が80%、鉄鋼分野が60‐100%、鉄道インフラ分野が不明となっている。 上記の被害報告に対して、別の見解が存在する。 1947年1月29日付の『イズベチア』によれば、ソ連が「賠償」として満州から撤去した設備の総額は9千7百万ドルに過ぎないとしている。 また、ソ連の歴史家O. E. ボーリソフは、ソ連占領地域における接収活動を国際法上認められている戦利品の徴収だと擁護する一方で、ソ連は撤退する1947年の2月まで一貫して満州の経済再建に携わり、6000キロにわたる鉄道網の修復、経済インフラの再建を成し遂げたと主張する。従ってソ連は接収以上の利益を満州にもたらし、鉄道網などの経済インフラが破壊されたのは日本軍が撤退する際に行った破壊工作が主であり、接収活動は満州経済に悪影響を与えない範囲でおこなわれたと主張する。 ボーリソフの主張に基づけば、ソ連の接収活動によって満州が経済的に危機に陥ったことはなく、しかもソ連と中国東北部の貿易収支が増加しているという事実や積極的に経済インフラを再建しているという主張に依拠すれば、ソ連は満州の経済復興を積極的に支援していることになる。 このようにポーレー、在満日本人団体の調査結果と『イズベチア』、それにボーリソフが見積もった数字には大きな隔たりがある。では、なぜこのような見識の差異が生まれたのだろうか。 ボーリソフが唱える「6000キロにわたる鉄道網の修復」に対して、ソ連が別の場所で撤去した鉄道レールをチチハル付近の鉄道網修復に当てていることが中国側の資料で確認できる。この資料からは、ソ連が外部から資材を調達して満州の復興を行ったことに対する疑問が生まれ、ボーリソフ説の信憑性が問題となってくることは間違いない。また、当時長春に滞在し現地の日本人とソ連軍のパイプ役を担っていた、満業総裁高碕が残した手記の中に、ソ連の復興活動に関する記述がないことも、ボーリソフ説に疑問を呈する要因となる。 しかし、一方でポーレーの算定に疑問を呈する見解もあがっている。瀋陽駐在の米国総領事クラップは1946年の5月11日から翌日にかけて鞍山の現状を視察している。昭和製鉄所を視察したクラップは、操業を停止し搬出が行われているものの、当工場の喪失能力を70〜80%としたポーレー報告の被害算定方法に疑問があることを本国に打電している。 20億ドル近くの損失を主張する「西側」と、それより少ない額あるいは損失自体否定する「東側」だが、この隔たりは石井が指摘するように、中ソ関係のダイナミズムや冷戦期のイデオロギーの文脈から説明されるべきなのだろうか。隔たりの原因を説明できる一次資料が収集できておらず、ポーレー、『イズベチア』、ボーリソフが具体的にどこを見てどのように被害算定を出したのかも確認もできていない。この状況下で、イデオロギーの文脈から安易に説明することは避けるべきである。ここでは見解の差異を記述するだけに止めたい。 被害額やその算定方法をめぐり議論があるものの、この接収活動で満州が被った被害は決して小さくはない。国際政治の舞台で被害が明らかになるにつれて、米中ソ各国はヤルタ密約の枠組や中ソ友好同盟条約の文脈から、正当化と抗議を試みることになる。次章でその非難の応酬を検討したい。 ≪次号に続く≫ |
|
|
|
![]() |





