更新日:2008年5月19日(月)
ぶらりしゃらり
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| ほかの人はいざ知らず、僕の場合、テレビのコメンテーターとは、自己嫌悪のカタマリである。 たとえば、愛知県豊田市で下校途中の女子高生が殺害された事件についてコメントしたときだって、ざっと30秒ぐらいのうちにしゃべり終わらなければならない。 明朗闊達な素晴らしい女子高校生は、サッカー部のマネジャーである。その日も部活を終えて、午後7時過ぎごろ自転車で学校を出た。暗くなった田んぼのなかの一本道を一人で急いでいたところを、襲われたらしい。 遺族の怒り、悲しみは、ぼくごときの想像を絶するはずである。したがって、「想像を絶する」ようなことについてコメントすれば、いかにもワケ知り顔の軽薄な言葉の羅列に終わってしまうに違いない。 このような事件が起こるたびに繰り返されることだが、この事件の現場周辺では、以前から不審な人物の出没がつづいていたというのである。いつでも、どこでも、あとになって、そういう情報が出てくるのである。 だったら、地域住民、警察が一体になって防犯活動を強化していればよかったのに、という「あと知恵」が浮かぶ。しかし、都会の住宅街などならともかく、「田んぼのなかの一本道」で、どのような防犯活動が可能なのだろうか? そのような道に、街灯を完備するようなことができるのだろうか? そのような登下校路は全国に、それこそ無数にあるだろう。そして毎日、各地に女子高生がただ一人で下校している姿があることだろう。仲間がいっしょならいいけれど、いつも仲間がいるとは限らない。家庭が迎えに行ければいいけれど、いつもそうはできないだろう。警察のパトロールだって限りがある。さて、たった一人で下校する女子高生を、どう守ったらいいのだろうか? コメンテーターは途方に暮れるのである。だからといって、「途方に暮れます。スミマセン」で引っ込むわけにはゆかない。このごろぼくが採用している方法は、「何をいったらいいのか、いまの段階ではわかりません」とか、「これぐらいのことしかしゃべれません」と逃げてしまうことだ。だからといって、毎回こればかりでは、コメンテーターなんかいらない、ということになってしまう。 そんなお前は、なぜ懲りもせずにソマツな面をブラウン管にさらしているのだ? といわれれば答えようもないけれど、いつかきっと、ちっとはマシなコメントができるはずだと、みずからを励ましながらやっているのである。自己嫌悪こそが、逆説的エネルギーになっているのである。 幕末から明治にかけて日本にやってきた欧米人たちが、口をそろえて絶賛した。日本人は、何と子どもを可愛がり、大切にすることか! その点はいまでも、まあその通りだが、しかし同時に、地域ぐるみ、組織的に子どもを守るとなると、いたって不得意である。「国民的課題」なのである。あるかないかの「有事」なんぞとなると、とたんにゲンキな発言が相次ぐのに、たった一人の子どもを守る手段となるとシュンとしてしまう。「国防」というようなイサマシイ議論はカンタンだけれど、「一人の国民」を守るのは、じつは難しいのである。ついこのあいだ起きたイージス艦と漁船の事故は、その典型だった。 みなさん一人ひとりがコメンテーターになったつもりで考えてみて下さい、と「自己嫌悪」を「逆説的エネルギー」に置き換えて生きている、軽い存在のヘナチョコ・コメンテーターはひそかに願っているのです。 チェコ生まれの作家ミラン・クンデラのオモロイ小説『存在の耐えられない軽さ』の冒頭は、ニイチェの「永劫回帰」という考えを引用して、経験のすべては繰り返されるなんて、どういうこと? と語っている。なるほど、コメンテーターごときの自己嫌悪なんぞ、いくら繰り返されたっていいけれど、女子高生の悲劇は繰り返させてはならないのである。 女子高校生の無念と遺族の怒り悲しみを、ただただ想う。 |
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