更新日:2008年5月19日(月)
ブラキストン線
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なぜか話芸の達人・小沢昭一さんと数年来急速に親しくなり、たくさんの著書を頂戴し、招待状が舞い込む。私独りではもったいないので、家内を同道し、友人を誘う。 今回、新宿の紀伊国屋ホールでの“ハーモニカ昭和史”は、小沢さんの独り芝居、歌って語ってさぞ楽しかろうと、旧友のAが、田舎から東京に戻ってきた記念に夫婦を誘ったら即座にOK。楽しい休日の午後となった。 小沢さんは昭和4年生まれ、私よりひとつ年上で、戦争中は海軍予備兵学校を経験しておられる。蒲田の写真館の息子として生まれ、松竹の俳優・女優がいつもタムロしていたという。昭和初期のモボ・モガの自由な時代を満喫して育った。ハモニカはその当時の街の不良少年たちの必携の小道具だったこと、私にも記憶がある。 小沢さんは、ふるさととは、空間だけでなく、時間的にもあるのではないか、という。ある世代にとってはある時間(敗戦であれ、安保であれ)が忘れがたいふるさとなのである。また、年のせいか、最近は、童謡や小学校唱歌がやたらになつかしく記憶に蘇るという。いずれも私と同じだ。 同道した旧友のAは、広島生まれ、原爆で、父と兄(長男)を同時に失い、母と兄(次男)と共に、戦後、東京に出てきて、洗足池のほとりのアパートに、ひっそりと住んでいた。元病院長夫人だった母上は、気品があり、生活は貧しかったろうが、少しも卑しさを感じさせなかった。 調子を合わせて歌うこと 旧友Aも、学生時代も就職後も苦労を重ねたが、いつも会話が楽しく余裕を失わなかった。聡明な勘と判断力がつねに快活さを保った。最初の夫人が病で倒れ、その遺言で、60歳直前に二度目の結婚をした。私は二度目の結婚の安上がりの仲人である。 Aは早く、伊豆高原近くの別荘地に隠棲してしまったが、最近、東京の猥雑さがなつかしくなり、東京は隅田川近くのマンションに移った。久しぶりに会っての会話に、彼はチョビ髭を生やし、シャンソンの勉強をして、仲間内で夫人達からの“伊豆のモンタン(イヴ・モンタンのもじり)”と呼ばれたことを自慢した。 小沢昭一と伊豆のモンタンとは、これは絶妙の取り合わせ、休日の午後の楽しみは倍化した。世の中の政治がどうであれ、景気がどうであれ、笑い飛ばして生きてゆく元気が出る。 この人生の間合いが大切なのだ。苦労は絶えない。心配事も絶えない。しかし、笑い転げて涙が止まらないこともある。その涙は人生の歳月であり、人生そのものの重さなのだ。 * 仕事柄、芝居関係にも知人は多い。いずれもみごとな仕事ぶりだ。ただ、作家や学者とちがって、芝居は本来的に集団制作である。そこがたいへんだが楽しくもあるのだろう。しかし、人生最後の段階で、島田正吾の独り芝居ではないが、独りで芝居をやる境地になるのだろう。観客もまた、狭雑物なしに、純粋なファンとして時間を共有するのだろう。 |
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