しゃりばり 北海道 札幌 政治 経済 金融 教育 農業 介護保険 ボランティア まちづくり 地域貢献 極東 ロシア サハリン 防災 シンポジウ
検索内容の検索
HOME
HOME > 特集 > 6月号 特別寄稿 ソ連参戦後の対日賠償政策の変遷−満州におけるソ連の接収活動とそのインパクトを中心に−(上)
更新日:2008年5月20日(火)
特集

6月号 特別寄稿 ソ連参戦後の対日賠償政策の変遷−満州におけるソ連の接収活動とそのインパクトを中心に−(上)



国吉聡志 沖縄タイムス社・記者

プロフィール:1982年、沖縄県那覇市生まれ。沖縄県立開邦高校卒後、北海道大学に進学、法律を専攻。05年から06年まで中国吉林大学法学院へ留学。満州に留学した経験を生かして、卒論のテーマを「ソ連参戦後の対日賠償政策の変遷」とする。本稿の元とする論文である。08年4月より沖縄タイムス社で記者に就く。(編集部注:本稿は、原本にある脚注・表・図を省いて3回に分けて掲載する。) 

全体構成        
(上)
序章 問題の所存
第1節 問題関心  
第2節 研究方法
第1章 ソ連対日参戦前夜−戦利品問題の発生−
(中)
第2章 接収の開始と被害の発生
第1節 ソ連による接収活動
第2節  国民党とアメリカによる被害の算定
(1)国民党による被害調査
(2)ポーレー使節団による被害調査
(3)在満日本人団体による調査
(下)
第3章 接収活動に対する米中間の対応と国際会議での非難の応酬
第1節 米ソ間
第2節 中ソ間
結語  接収活動が東アジアに及ぼしたインパクト

序章 問題の所存

第1節 問題関心

 第二次世界大戦後の戦後処理の枠組みを決めるべく開かれたヤルタ会談において、ヨーロッパの戦後処理や勢力圏確定において連合国間に対立が見られたが、対日戦については利害関係のある参加国がアメリカとソ連だけだったため、さしたる対立もなくソ連の対日参戦がアメリカとの密約にて成立した。
 太平洋戦争末期におけるソ連の対日参戦は、いわゆるヤルタ密約における参戦公約の実施すなわち満州への侵攻から戦後処理、そしてソ連軍の中国東北部からの撤兵をもってそのサイクルが完結する。他の連合国が期待した「対日軍事的勝利」は参戦後わずか2週間で達成され、対日戦勝利への団結そのものに関しては連合国間で対立はなかった。

 しかし、その後満州においてソ連独断で行われた資産・経済インフラの撤去に始まる戦後処理や、ソ連軍の撤兵時期についてソ連とアメリカ、中国との間に対立が生じる。アメリカとのそれは撤去された満州の工業設備の位置づけ(賠償品か戦利品か)、中国とのそれは撤兵時期及び撤去物の返還をめぐるものであった。
 ソ連は満州で「戦利品」と称して多数の日本財産や経済インフラを撤去し、一部は本国に搬出したが、このソ連の行為はアメリカの対日賠償政策に影響を及ぼした。アメリカは戦争中期の1943年ごろから国務省を中心にして海外国有資産をそのまま現地の被害国に引き渡すことで、日本に日本本土に負担をかけないように早急円滑に賠償を履行させる計画を立てていた。
 満州の日本官有資産も中国を中心とするアジアの戦争被害国に引き渡しの対象とするかにおいてアメリカ政府内で対立が起こるが、海外資産を現物賠償として被害国に引き渡すという基本方針は変わらなかった。従って、ソ連が独断で満州から日本の資産を撤去したことは、中国に引き渡す予定であった「賠償物」が減ってしまうことを意味し、アメリカの賠償計画に支障をきたす可能性があった。

 満州におけるソ連の接収活動は、アメリカの戦後極東計画やカイロ・テヘランなど戦後秩序を話し合う国際会議で取り決められた合意の下で満州における主権が認められ、その文脈から日本資産を復興資源として接収できるものと予想していた中国の戦後戦略にも影響を及ぼした。前述のアメリカの政策は、特に日本とロシアに権益を侵害されていた東北部での主権回復を目論んでいた中国の意図と一致する。
 中国も戦後日本の在華官有資産を接収することで復興の足がかりをつかめると期待を寄せており、カイロ会談においてはイギリス、アメリカに満州における中国の主権を認めさせるに至っている。

 ところで中国とソ連との関係を見るにあたり、留意するべきはヤルタ密約と中ソ友好同盟条約の関係である。中ソ条約は戦後の中ソ関係の枠組みを規定するものであり、その柱はヤルタにおいて米ソ間で成立した合意、すなわち中国の一部地域におけるソ連の政治的優位性を中国が認める代わりに、国府政権の正統性及び満州の主権の確認、援助を延安(共産党)ではなく重慶(国民党)に与える、というものであった。
 この条約は、ヤルタ密約で明記された満州における権利を通して満州における影響力拡大を狙うソ連と、ヤルタ以上の譲歩をしまいとする国府側の妥協によって成立したのである。
 すでに条約締結交渉時において中ソ友好関係がほころびつつあった事実を挙げつつ、中米、中ソ関係の文脈から条約が成立した経緯の説明を試みたい。

 米ソ間では撤去物の位置づけ、すなわち「戦利品」、「賠償品」のいずれに解釈するかをめぐって意見が対立する。アメリカは「賠償物」として中国や他の戦争被害国に引き渡そうとしたのに対し、ノモンハン事件以降実質的被害を被っていないソ連は「賠償品」とは異なる概念を提示して自らの行為を正当化しようとした。
 この対立は、日本の在外資産の引渡しに加えて国内の産業設備の撤去移送によってアジア復興を優先させようとしたポーレー(Edwin.W.Pauley)の賠償構想と、「空間」を占拠することにより極東のプレゼンスを確保しようとしたソ連の意図との間に生じた対立に集約できると考える。

 上述のように、満州の戦後処理についてはソ連がイニシアティブをとったため、満州という視点からソ連参戦後の中ソ、米ソ関係を見る際に、ソ連が重要であることは言うまでもない。しかしソ連の行動には謎が多い。勢力圏、すなわち「空間」を占領するためにヤルタ密約を結び中ソ有効同盟条約を締結したのであれば、その「空間」の支配を維持するために必要な産業インフラをなぜ自ら破壊したのか。
 自国の戦後復興を優先せんがために占領地から産業設備を撤去したという解釈は、多大な被害を被ったヨーロッパには当てはめることができる。しかし第二次世界大戦で実質的な被害を受けていないアジアにおいては、それをソ連軍の意図を完全に解明する手段として用いることはできない。ソ連が用いた「戦利品」の理論とは何であり、冷戦史においてソ連の行動を解明するために使われる「拡張主義」の文脈からどのように位置づけられるのかを研究の出発点としたい。

第2節 研究方法

 この研究は、太平洋戦争末期から日本敗戦直後にかけて問題となった満州の戦後処理をめぐる対立を通して、問題となったソ連の行動の過程を報告するとともに、行動の源泉とそれが東アジアの戦後国際関係に与えた影響を調査するものである。
 研究を進めるにあたり、参考とした先行研究を紹介する。まず満州の施設撤去に対する中ソ対立については香島明雄『中ソ外交史研究1937−1946』(世界思想社1990年)、香島「満州における戦利品問題」『京都産業大学論集 七号』を参考にした。香島は一連の満州戦後処理をめぐる中ソ対立の過程を、満州への権益拡大を目論んでヤルタ密約を拡大解釈しようとするソ連と、密約を最大限の譲歩として捉える中国側の立場を明らかにした上で、両国にとって「戦利品」撤去がどのような意味を持つのかを考察している。考察の中で、ソ連が対日参戦を控え外モンゴルの完全独立と北朝鮮のソビエト化に自信を深める一方で、外モンゴルと北朝鮮の中間に位置する満州からの脅威、すなわち「門戸開放」と「機会均等」を掲げるアメリカが満州の軍需産業に入り込むことに対して警戒を強めたことは十分考えられるとして、上記の懸念を払拭するために満州から鉱業設備を撤去したことはありうることだと結論づけている。

 次に戦後満州を中ソ経済協力における両国の対立の文脈から捉え、北東アジアの情勢変化を追う材料として石井明氏『中ソ関係史の研究1945−50年』も先行研究と位置づけたい。石井氏は中ソ友好同盟条約に明記された、「中ソ両国による満州工業の共同運営」を体現させるべく日本敗戦後に長春市で行われた中ソ交渉の過程を、交渉に参加した中国側の当事者張公権が記した日記を基にして解明している。撤去された工場設備の返還をめぐる応酬も日記には記録されており、撤去の過程とその処理を知ることができる研究の一つである。
 米国の日本占領計画の研究については、五百旗頭真氏『アメリカの対日占領政策 (上)(下)』や大蔵省財政史室編『昭和財政史 第三巻 アメリカの対日占領政策』を中心に多数の先行研究が存在する。この二冊はアメリカの極東政策を基本に日本の戦後政策の成立や、それに関する連合国間の対立を詳細に研究、叙述している。米ソ間で上記の対立が取り上げられた事実とその位置づけを紹介したものとしては、前述の二冊の他に北岡伸一「賠償問題の政治力学」『戦争・復興・発展』(東京大学出版会2000年)を参考として挙げる。
 また中国側の文献としてピンイン(xue xian tian)のもの(書名略・編集部)を挙げる。同氏は施設撤去と経済合作、ソ軍撤退についての中ソ交渉を中国側の資料を基に解明しており、ソ連側が国防の文脈から施設撤去の正当化を試みたとしているのが注目される。刊行資料として中華民國重要史料初編編輯委員會編『中華民國重要史料初編 : 對日抗戰時期 第三編 戦時外交』と中華民國重要史料初編 : 對日抗戰時期 第七編 戦後中国』を本稿作成の基礎としたい。

 上に挙げた先行研究であるが、ソ連軍の接収過程の大枠を明らかにしているものの、行動の源泉にまでには迫れていない。すなわち、勢力圏を確保したいと願う満州からなぜソ連は産業設備を撤去したのかという問いに答えうる論拠を提示しているものはない。香島の研究は、ソ連による撤去の詳細を明らかにして、「賠償品」、「戦利品」の対立からソ連軍の行動を解明しているが、接収を地政学的観点から考察しておらず、また同時進行していた中ソの経済協力(経済合作)交渉との関係が不明確である。
 一方、石井は中ソ経済合作の視点から書いているので、ソ連軍の接収自体に正面から向き合うものではない。ソ連が具体的に何を接収し、どのように接収を正当化したのか、そして米中はどのような反応をしたのか。日本での先行研究を整理し、中国側の資料・文献を使って必要な部分を補い、ソ連軍の行動の源泉に迫る必要がある。

 満州の戦後処理が東アジアの戦後秩序に与えた影響については、アメリカの対日戦後政策の文脈から検討する。
 日本帝国の一部であった満州の戦後処理をめぐる対立は、日本の非軍事化と帝国の解体を謳いつつ、イニシアティブを握っていたアメリカの策定した対日戦後処理政策に影響を及ぼしたと推測されるからである。アメリカの対日戦後処理計画は、国務省の知日派専門家を中心に策定されており、第一次世界大戦後にドイツへ過酷な金銭賠償を課したことへの反省から、日本の海外資産を現物賠償として現地の被害国に引渡し、「帝国日本」を解体させることによって日本本土の負担を強いることなく、賠償を履行させようというものであった。
 1945年8月9日のソ連対日戦後に行われた同国の満州における撤去活動は、海外にある現物賠償を基本としたアメリカの対日賠償政策の実行可能性を失わせるものであり、そこから生まれた米ソ中の対立ないし関係の冷却化は、「連合国」の結束の崩壊を促した。第二次世界大戦末期、対日戦勝利のために連合国間で交わされていた合意や計画は、日本の降伏後とともに修正を迫られていくのである。
  
第1章 ソ連対日参戦前夜 −戦利品問題の発生−

 1945年8月9日ソビエト連邦軍は満州に進撃した。短期間で満州の南北分断に成功し、8月19日には新京市にソ連軍が入場した。これ以降、満州各地のソ連軍占領地域で大規模な日本資産の接収活動が行われ、所有者である日本人とソ連軍側の間に対立が発生する。ここにおいて「戦利品問題」が事実化し、米中ソ関係に波紋を広げていくことになる。
 中国側の専門書、殊に東北地方史をまとめた文献や石井明氏の指摘では、戦利品問題は上記のごとくソ連が満州制圧を果たし、工業設備の撤去を行った時点からソビエトの占領当局にとって主張され始めたという論考が行われている。しかし外交の論壇上ではソ連参戦前夜に在満日本資産の取り扱いをめぐっては中ソ間で既に意見交換がなされており、その様子は中華民国、アメリカの外交文書に照らして明白である。従って、ソ連軍の接収活動の実行後に同問題が発生したという論証は的を射ていない。

 外交の場において在満日本資産の処分が初めて言及されたのは、ソ連の対日参戦の2日前、1945年8月7日であり、モスクワで開催されていた中華民国とソ連邦の会談の席上であった。この席上でソ連側のスターリンは突然、「赤軍占領地において、一部日本企業の株式を含む日本資産はソビエトの戦利品とみなすべきである。」と言及する。
 この中ソ会談は、同年5月にアメリカとソ連との間で取り決められたいわゆるヤルタ密約によってカイロ宣言で保障された主権が侵害されたと主張する中国と、ヤルタの正当性を主張し、その履行を求めるソ連側が中国東北地方の戦後処理について討議する目的で開催されたものであった。ヤルタ密約は対日参戦をソ連に確約させる代わりに、大連港の国際化、南満州鉄道・東清鉄道の中ソ共同管理を認めるものであり、日本によって占領された地域の主権の回復と、中華民国政府を正当な政府として認めたカイロ会談とその内容を異にする。カイロ会談で国際社会から主権と正統性を保証された国民党にとっては当然承服しがたい内容であり、ヤルタ合意の履行を求めるソ連側との対立が発生した。会談は7月1日から12日を第一段階とし、ポツダム会談(7月17日から8月2日)で中断した後、8月7日から再開し、同月14日に中ソ友好同盟条約の締結で終了している。

 第一段階では(1)満州、新疆の国境線画定、(2)満州に進軍したソビエト軍の撤兵時期、(3)鉄道沿線の警備、(4)中国軍事代表団の入満および民政機関の設立について話しあわれたが、(1)大連、旅順の管理や(2)鉄道の管理および人事権について未解決のままであった。
 これを見ると、日本打倒のためにソ連が一時的に満州に入ることについては大筋で合意が成立しているものの、その後ソ連が満州に居座り続けることについては中国の強い拒否反応があったことが伺える。換言すれば、これらヤルタ密約で定められたソ連参戦の条件すら中華民国側にとってみれば受け入れ難かったのである。スターリンの「戦利品発言」が出たのは第二期の初日であり、第一段階で交わされたヤルタ合意をめぐる両者の認識の差異を埋めようと交渉が再開されたものの、難航が予想された時であった。
 この発言がなされた時、中国側全権の宋子文行政部長は、発言の真意を問いただすべく、スターリンに詰め寄った。しかし、スターリンはこれ以上この問題に言及することなく、「この問題は次の機会に討議されるべきである」と述べるにとどまっている。

 これまで会談で一貫してヤルタ合意の拡大解釈(大連港の国際化→大連の駐兵権への言及、南満州鉄道・東清鉄道の共同管理→鉄道沿線の炭鉱事業の共同経営など)を試みていたソ連側にとって、この戦利品への言及は単に解釈の延長線の議題にすぎなかった。
 また極東への影響力の強化を目標としていたソ連からすれば、ノモンハン事件以降実質的な被害を受けなかった日本の資産を接収することによってプレゼンスを強化する意図があったのだとすれば、米中が戦争被害国への引渡しの根拠としていた「賠償品」ではその意図が達成できないと考え、「戦利品」という新しいカテゴリーを設けて満州の日本資産に言及したことは当然のことであった。

 おりしもポツダムにおいて、ヤルタで取り決められた合意に基づき、ドイツ戦後処理の再討議がされ、実行に移されていた時であった。ソビエト連邦が対独賠償を求める際、ナチスドイツによって被った被害を根拠にしたことはよく知られている。独賠償の配分比率はソ連56%、英米22%に落ち着くわけであるが、この結論に達する前にソ連と英米との間に「戦利品」、「賠償品」をめぐる解釈論争が起きていた。そのポイントはソ連側が「戦利品」の範囲を極大化しようとしたのに対し、英米側がそれを抑制しようとした点にあった。
 例えば火砲や軍艦などが「戦利品」に分類されるのは異論がないとしても、それを製造・輸送した工廠や交通インフラ(すなわち民需転用可能な設備類)までを「戦利品」視するのに対し、英米はこれらを「賠償品」としてカテゴライズし、戦争被害国に均等に配分されるべきであるとした。
 それに、接収物を賠償品として被害国に分配することを戦後処理の柱にしていたアメリカからすれば、接収・配分比率も制限されない「戦利品」という文脈から戦後処理を行われることは迷惑だった。自国が支配下においた地域の「戦利品」は、被害国分配を基礎とする英米の「賠償品」構想とは異なり、他の同盟国に供出する義務もなければ、接収が制限されるわけでもない。ソビエトが「戦利品」理論を使って戦後処理を行おうとしたのもそこにあった。

 ドイツ賠償問題と満州戦後処理をめぐる交渉の間に、何らかの相関関係があったことを示す資料は、現時点で発見できていない。しかし、クレムリンがヤルタ・ポツダムで使った理論を満州でも適用して、独自の戦後処理案を提案した可能性は十分に考えられる。また後にアメリカ政府の特使として在満日本資産の調査を行うポーレーは、対独賠償に関わっており、ソ連の満州における行動は同地を支配する文脈で行われていると警告したように、ドイツの経験を踏まえて警告しているように思える。ヨーロッパの情勢が北東アジアの戦後処理にも影響したと考えるのは自然だと考える。

 スターリンの一連の発言を聞いた宋は、失望の色を隠さなかった。前述の通り国府はヤルタ密約を根拠に、満州への影響力拡大を狙うソ連を抑制しようと必死であった。ソビエトは、ドイツでは大量のドイツ資産を「戦利品」として占領地から持ち運んだが、それは「被害」を被ったヨーロッパだからこそできたことである。ノモンハン事件以降、日本と交戦しておらず、被害も欧州戦線と比べて軽微なソ連にとって、ヤルタ密約は参戦の条件として十分ななずであった。ヤルタ密約を全面的に受け入れることを最悪のシナリオとして描いていた中国にとって、ソビエト側の態度は予想していた以上に厳しいものであった。
 
 これ以降、ソ連の接収活動の開始によって満州が被った被害が、国民党政府や現地日本人を通じてアメリカ政府に通告されるまで、「戦利品」問題が外交の論壇上で討議されていない。双方の立場の違いを克服するために中ソ交渉が行われたのにもかかわらず、中ソが満州という重要な地域の戦後処理について言及することがなかったのはなぜなのだろうか。
 ソ連側にとって、戦利品問題を取り上げて中国側の態度を硬化させることは望ましくなかった。それは中ソ友好同盟条約の締結遅延につながるからである。アメリカとのヤルタ密約によって対日参戦の代償を得たソ連であったが、対外的なアピールとして中華民国と協同の上で日本に立ち向かうという行動を起こすことが求められていた。そのためにはヤルタで交わされた合意文書の中にある中ソ間の同盟(alliance between the USSR and China in order to render assistance to China with its armed forces for the purpose of liberating China from the Japanese yoke) の成立が、対日戦参戦の大義名分獲得への近道でもあった。大連港の位置づけや、南満州・東清鉄道の経営・沿線のインフラの取り扱いをめぐって紛糾していた当時、戦利品について更に具体的な言及をすれば、中国側の更なる反発を招くことは必至で、好ましくなかった。

 さらにこの時、原爆が開発されており、その一発が広島に投下されていた。原爆の完成とその広島への投下はソ連を焦らせていた。原爆実験成功後のポツダムでスターリンが突如、参戦準備が整った旨を発言した裏には、ソ連参戦なくとも日本が負ける可能性があったことを窺わせる。
 ヤルタで「ソ連人民」のために数々の満州における利権を獲得したソ連は、それがアメリカの独断で失われるのを嫌っていたに違いない。しかし、このような状況から具体的な言及は避けたものの関心を抱いていることはスターリンの「後の議題にするべきである」との発言において十分に察することができ、国府側のように多国間協議に委ねようとする姿勢も見せなかった。この後、ソ連が満州に進出するわけであるが、同軍の接収活動において軍当局者が「戦利品」として処理しようとする態度を見ても、スターリン発言後ソ軍側が一時的に主張を引っ込めていたにすぎないことが客観的に理解できる。

 中華民国側の対応についても若干言及をしておく。三カ国の中で一番不利益な立場に立たされる可能性があるのにも関わらず、刊行資料を見る限り不思議なことに中国側は一連の戦利品問題について外交部宛に発言の事実のみを一度発信しただけである。従って、その後どのような対応がとられたのか中華民国政府の刊行資料で追うことはできない。
 ただ、アメリカの外交文書に照らしてみるに、中国は現在の二国間協議よりも戦後行われるはずの多国間協議に、この問題を託して解決を図ろうとしたのではないか、と推測することは可能である。前述の通り会議は難航を極めていたし、中国国民党がソ連と同時期に自力で入満することも不可能に近かった。
 会談後、宋はアメリカのハリマン駐ソ大使に多国間協議に望みを託す内容の発言をしていた。今はソ連をおさえることは現実的に不可能である。しかし、在満日本資産を「賠償品」と認識することについて共同歩調を取ってきたアメリカを始めとする他の連合国が協議に参加すれば、硬直化した事態を打開できるかもしれない、と。宋はこのように考えてハリマンにメッセージを送ったのだろうか。

 最後に戦利品発言についてのアメリカの動きを見て、この章を閉じることにする。アメリカはヤルタの当事国として、極東条項すなわちヤルタ密約が過不足ない形で履行されることを中ソ会談に期待した。従って、駐ソ大使ハリマンは終始中国代表団と連絡をとりながら、助言をしたり、注意を喚起したりした。ハリマンも8月8日に宋を通じて発言の内容を聞かされ、本国宛に次のごとく電文を打っている。

 (赤軍占領地にある日本資産を戦利品として位置づけるという)言及がソ連側によってなされたのはこれがはじめてであるが、ソ連側はこの言及以降、まだ宋(中国)や我々に対して何も言ってきていない。仮にソ連がドイツで行ったように「戦利品」を定義し、接収するのであれば、満州の一定の工業設備は撤去され、ソ連の半永久的な工業的満州支配を許すことになるだろう。私の理解によれば、日本は満州における重軽工業の大半を所有し、これを発展させてきた。この問題に対するわが政府の立場について、訓令を頂きたい。私は、日本の株式に対するスターリンの要求には反対の立場を、戦利品についてはポツダムで採ったわが国の立場に基づき、歴史的に認められた物資に限定するなど厳格に対応することを進言する。賠償に関しては、全ての日本資産はその所有地を問わず、戦争被害国によって分割されるべきであり、それは諸外国の協定に拠るべきである。この件についてソ連側から何もまだ言及がなされていないので、この際わが国の立場を表明しておかないと、ソ連側が占領地においては一方的に戦利品を接収する権利があると主張する恐れがある。ポーレー大使も私と同意権である。

 これに対して国務長官バーンズは9日付けで次の電文をハリマンに送っている。

 貴殿の電文にあった8月8日にソ連側によって言及された「戦利品」と賠償品についての貴殿の意見につき、我々はこれを是認する。
 貴殿も承知の通り、満州は中国の領土の一部であり、日本の支配から解放された暁には中国に返還されるべきである。(中略)
 貴殿は宋およびソ連政府に対し(ソ連については問題を提起してきた場合に限り)次のように通告すること。(1)米は戦利品をめぐるソ連の定義および日本資産による賠償に関して、ソ連一国もしくは中ソ間で決定することについては反対である。(2)対日賠償問題は、対日戦に参加した諸外国間の協定によってその指針が決定されるべきである。殊に満州その他の日本から開放された地区に関しては、中国に対し特別な配慮をなすべきである。(3)満州の工業設備は同地域の経済維持に不可欠であり、同設備の撤去に反対する中国を支持する。
 
 ここで注目するべきは、バーンズが「ソ連が問題を再提起してきた場合に限り」米国の立場を明確にするべきだとしていたことである。電文の内容自体はヤルタ極東条項を拡大解釈しようとするソ連を牽制し、中国の立場に理解を示すものであった。
 しかし、実際アメリカは宋にソ連をけん制するように通告しただけで、自らが中ソ間に介入することはしなかった。米国の立場はこの会談で出される結論がヤルタ協定に合致するものでなければならぬというものであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。しかも上記のような留保をつけてしまったことで、爾後極東ソ連軍の行動に対するアメリカの対応は後手に回ることになる。
 すなわち、実際に撤去されてしまってから抗議する「事後の抗議」としてである。ともかくこの電文で明確となったのは、中国とアメリカは「戦利品」ではなく「賠償品」として在満日本資産を見ていること、国府を支持するものの宋が望む多国間協議や中ソ間系への介入については慎重な姿勢を崩さなかったことである。この後この「戦利品問題」はソ連軍の満州侵攻、日本資産撤去開始まで当事国間で討議されず、保留されることとなる。(次号に続く)









一覧へ戻る







ROYCE' 「大人のショコラ時間」・・・ロイズのチョコレート。雪華亭 北海道が生んだ本格派かに料理専門店北のお魚.net 北海道の食材を生産者から直接お届け!
しゃりばりとは・・・
「しゃりばり」とは「CHARIVARI」。中世から19世紀までのヨーロッパで広汎に認められた民族的現象の一つです。「どんちゃん騒ぎ」「なべかまセレナータ」という訳語があてられています。私たちはこの北海道を舞台にCHARIVARIのごとく陽気に元気に、多様な考え、実践を通して、過去・現在・未来の北海道を熱い想いと冷静な判断で郷土の可能性と文化を読者の皆様とともに再構築していきたいと思います。
メルマガ登録はこちら(無料)
しゃりばり投稿募集
2008年1月号から「しゃりばり」の投稿欄を設けます。
2000字前後で「しゃりばり」へのご意見、ご感想などをお寄せ下さい。
掲載させていただいた際には、図書券(2千円)を進呈いたします。
詳細はこちら
HOME運営組織案内プライバシーポリシーメルマガ登録お問合せ旧サイト
ページ上へ
社団法人北海道総合研究調査会(略称:HIT)
〒060-0004 札幌市中央区北4条西6丁目毎日札幌会館3階
TEL 011-222-3669/FAX 011-222-4105