更新日:2008年4月15日(火)
特集
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本号特集で夕張訪問をした際に出会った武内芳樹さんを大学進学のために夕張から札幌に引っ越してきた翌日に訪ねた。 間もなく通うことになる大学の近くでお会いした。「引越しの片付けは、大体終了しました」ということだった。3月の末に石川県で開催された全国の和太鼓大会(日本太鼓ジュニアコンクール)に出場して、小学校1年生の時に始めた「和太鼓生活」12年間の句読点を打った直後でもあった。 夕張生まれ、夕張育ちの18歳の青年には、地域の変化はどのように見えていたのだろうか、若者の言葉でその状況を語ってもらった。 夕張でお会いした時に「18年後の夕張を語ってくれる人がいたら教えて欲しいんです」と言った言葉が記憶に残る。横で母親の弘子さんが、「一度、夕張を離れて大きくなってから夕張の役に立つような社会人になって帰って来たらいいのよ」と、励ます。 18歳までの夕張生活で直面した地域の現実を、将来の自分の勉学に向けて真正面から受け止めている高校3年生だった。きっと春から始まる大学生の生活では、他の若者より一歩先んじた社会観をもって挑むに違いない。夕張再生の芽は若者に育っている‥‥そんな気持ちにさせてくれた10代の声だった。 観光の街、夕張育ち 武内さん、6年間通った小学校は「夕張市立若菜中央小学校」。学年1クラスで同級生は35人程度で6年生まで。その後、千代田中学校でも学年1クラスで同級生は30人くらいだった。そして、夕張高校では学年2クラスとなる。武内さんが高校に入った時の3年生までは、学年3クラスだったそうだ。 夕張では、一時は7つの小学校と4つの中学校が、数年後には統廃合されてそれぞれが1校ずつになることがニュースになった。東京23区の1.2倍もある夕張市の面積を考えると、乱暴な計画に感じるのは、その地域にいるか、多少の想像力を持てる人たちだろう。武内さんは、小・中・高と12年間の学校生活で、級友が増える経験は無かったと言っていい。この実体験をどのように活かしていくことになるのか。武内さんは「人生に無駄なことはない!」という信念の持ち主らしく、全てを前向きに捉えていく姿勢が言葉の端々にうかがえる。 武内さんが生まれた1990年、夕張市の人口は2万人、第1回ゆうばり国際映画祭が開催された年でもある。だから武内さんにとって「夕張炭鉱」の存在は、過去の話であり、むしろ映画祭と共に子ども時代、生徒時代を歩んできたことになる。「炭鉱から観光へ」の切替が進んでいた夕張市で育ったのだ。武内さんが生まれる前に1979年「メロンブランデー醸造研究所開所」、1980年「石炭博物館、SL館開館」、1983年「石炭の歴史村全村オープン」、1986年「ホテルシューパロ開業」と夕張の観光路線はひた走りに走っていた。 「借金」の言葉が記憶に残る 中学生、高校生となるにしたがって、家庭での会話の中に「夕張市の借金はスゴイことになっているらしい」という言葉を耳にするようになった‥‥と言う。 しかし、住民、なかでも子どもたちにとっては、借金財政が特別なこととして身近に感じることはなかった。その理由を「誰かがお金を取りに来たわけではありませんから」と話す。 確かにそうである。私たちが日本国の借金が膨大だからといって、玄関先に取り立て人が直接やって来るようなことはない。もっと見えない形で、増税につながる通知書が来ていたりはするのだが。 その武内さん、ご自身は自分たちの行動を大きく縛っている、あるいは規制している社会の仕組みとしての「法律」に関心が高いこともあって、大学は法学部を選んだ。いずれは夕張に戻りたい、という気持ちも強い。多感な時期を過ごした故郷というのは、独特の引力をもっているものだ。 ちょうど、武内さんの親しんできた和太鼓を打つ構えが、両足で地面を掴まえるように、人が成長する土台に故郷があるのかもしれない。武内さんは、これから多くの人に会って、多くの本も読んで‥‥と大学生生活をイメージしている。 ところで高校の仲間は? と聞くと次のような状況を教えてくれた。 「10人くらいが夕張に残るようですが、一人は隣町の栗山町にある公立の北海道介護福祉学校に通学するようです。それから、授業料免除という枠を用意した登別の日本工学院北海道専門学校に進んだ友だちは数名います。札幌のパークホテルには、何人かが就職しています。そのほかにも、恵庭や江別の学校に進学した友だちもいます。若い人がこんなふうに出て行ってしまって、そのまま戻らないことになれば、町の再生って難しいように思うんです。」 素直な感想だ。母親の実家が農家であることも、夕張への愛着になっているのかもしれないが、30歳くらいまではいろいろな体験をしながら、叶うことならば夕張に戻りたいという希望をもっている武内さん。 若者を呼び戻せるか? 札幌での大学生生活は将来の国家試験を受けるための勉強に専念する覚悟でいるが、故郷への貢献も密かに思っているようなので、最近の本にあった事例を伝えたい。 その事例は『地域の力――食・農・まちづくり』(岩波新書1115)にあるものだ。徳島県の「上勝町には、こうしたIターン・Uターン者が非常に多い。役場資料によると、八十五年から二〇〇五年までにIターン者が一二六人、Uターン者が五八人。そのうち、八五人と四九人がいまも定住している。人口に占める比率は六・四%にものぼる」(同書64頁)。 2008年3月1日現在で2021人の人口の町が、20年間でIターンの人たちを惹き付け、定住するまでの魅力を作り出している様子は、同書に詳しい。 同書にはこうも書いてある。――「ごっつう閉鎖的だった」町は、いろどり(編集部注*)が脚光を浴びて、外から視察団や取材者がたくさん訪れ、さらに新たな定住者が生まれて他人と接する機会が増えたことで。二〇年間で大きく変わったのである。――(65頁) その「いろどり*」とは、日本料理に飾る木の葉のことで、これが町の大きな現金収入になっているのだ。食べられない葉っぱが米や木材の売上を大きく上回って稼いでいる、という事実は、この町に人口の2倍近い視察者がやってくることにもなっている。 一度、夕張以外に出た人材でも戻りたい気持ちをもっている人たちも少なくない。特に次代を担う世代にそのような気分が残っているならば、夕張は工夫次第で武内さんのような若手を呼び戻せる可能性が高い。18年後を語れる大人たちの奮起次第によっては、という条件付きであっても努力し続けていきたいものである。 |
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