更新日:2008年4月15日(火)
特集
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夕張市の現在についての思いは、住民としてそれぞれ複雑だ。 以前、10年近く夕張市役所に勤めたことのある方の見方は、どっぷりと公務員生活をしなかったせいか、外からの視点を身につけていてニュートラルであった。「勤めていた頃は、幹部の人たちの動き、言動から何かヘンだなあということは感じたこともあるけれど、まさか今日に至る財政状況とは思い至らなかった」と話される。 大沼さんは「『炭鉱から観光へ』という舵取りが、本当に良かったのかどうかという疑問がヨソから出されるけれど、当時はそれ以外の選択肢があったのかどうか、現在の財政破綻という結果からの後講釈でしかないのでは?」と、昨今の破綻後の夕張批判に釈然としない様子だった。 夕張出身の方を通じて紹介していただいた別の方は、「市民としては、不明を恥じるしかないのですが、それにしても‥‥です。もっと行政を信頼していましたからねえ。この破綻が夕張市役所の実態を知らないでいた私たち住民に現実を気付かせてくれたのです。後の祭り、と言えないこともありませんけれど。皮肉のように受け取られるかもしれませんが、この夕張の実態がその後の地方自治体の人たちには警鐘が乱打されているように聞こえるでしょうね。全国の自治体に対して、夕張の貢献度合いは大きいと思いますよ。 つい先日の大阪府知事になった橋下弁護士の初登庁挨拶(08年2月6日)は、夕張のようにならないためにとは言っていませんが、挨拶の内容を知ると夕張を意識している? と思ってしまいました。 だって『今の大阪は破産状態にあることを皆様方に認識していただきたく思います。その点だけは、厳に認識をしてください。民間会社であれば、僕も弁護士として破産管財の業務、破産の申告の業務をやりましたが、破産・倒産という状態になれば、職員の半数や3分の2カットなど当り前です。給料が半分に減るなどということも当り前です』と言ってのけています。恫喝みたいですが、まさに夕張市役所を先例にしているような話です。でも、大阪府と北海道は似た財政状況だと言いますから、北海道ももっと切迫感のある動きをしなければ‥‥」と話された。 (6)立ち上がる住民たち 北海道が明治以来、開拓の実験地域だったことを思い起こせば、「放漫な病院経営」を放置してきた夕張市役所と「病院職員の経営意識の薄さに併せて、夕張市役所の不適切な会計操作の道具に病院事業会計が使われてきたことがあると思われる」という前掲の経営診断は、自治体経営について強い関心をもたないでいた住民たちにとって、ツケは自分たちで支払うことになる手荒い実験渦中に置かれていることを意味する。 大沼さんの語り口に諦観とは別の明るさがあって救いがあるのは、炭鉱マンだった誇りかもしれないし、夕張という郷土を大切にする市民の心意気によるものかもしれない。その両方がミックスされているというのが、より正確だろうか。 大沼さん宅には「まだ回ってきていない」とおっしゃっていたが、昨年立ち上がった「ゆうばり再生市民会議」(07年6月22日)の活動を伝える「ほっとゆうばり」という広報紙がある。 「ゆうばり再生市民会議広報」が制作して、広報「ゆうばり」と一緒に配布されているらしい。この日に会った方々の中には未見の方もいたが、昨年の10月1日号からもう6号(3月1日に6号目)も出ている。夕張市ホームページでも見ることができる。懐かしいミニコミ紙で一所懸命に作られていることが伝わってくる。「福祉・生活分化会」で出しているものには「地域で困っていることは?」と、身近な事例が書かれている。 この点で住民の方々の問題意識は、かなり共有されているとお見受けした。大沼さんは「行政では、一棟(4軒)に一人とか二人しか住んでいないことから、隣の動向も分からなくなってしまうことを防ぐために、住む家をできるだけ集合させようとしているんだよね。でも、自分たちもそうだけど、歳とってからの転居は、なかなかそういう気持ちになれないもんさ。何でしょうね、長年住んでいたところへの愛着もそうでしょうし、老人クラブへの出席のところでも話したように『気力』の問題もあると思うよね。動くのが大儀になってしまうんだ。良いことだとは思わないけれど、転居しようという気持ちが起きないんだねえ‥‥」と話される。 (7)重司さんにとっての夕張と石炭 昭和一桁生まれの大沼さん、現在は財政破綻した夕張市に住んでいるが、社会の急変化を目撃することには初めてではない。この世代の人たちは、以下のような時代変化に揉まれてきているのだ。 重司さんは北海道夕張郡由仁村(当時)で7男2女の末っ子として1929年(昭和4)に誕生した。小樽に英国領事館が開設し、小林多喜二が『蟹工船』を発表した年だ。実父は岩手県から大工として北海道にやってきた兄についてきた弟だ。大工仕事を手伝っていたが、取得した農地で営農を始めた。母親の出身地である仙北(秋田県の仙北郡からの移住者の多かった岩手の仙北)の人から持ち込まれた農地だったらしい。100年近く昔の話で、もう確かめる術はほとんどない。 終戦時(1945年)には、16歳だった重司さん。1945年(昭和20)9月の海軍への入隊が決まっていた。それが、敗戦の1ヶ月前、などということは知る由もない。海軍飛行予科練習生(予科練)として、土浦まで出向いて試験に合格して入隊日を待っていた。ところが待機している間に、日本が変わってしまった。今なら「命拾いをした」ということもできそうだが、軍国少年にとっては挫折の気持ちしかなかった。戦後の食料難、就職難に直面することになった。 夕張との縁ができるのは1948年(昭和23)のことである。親戚の世話もあって夕張の清水沢の日本通運で臨時職員を1年間、その後本採用になって結婚もすることになった。 その後も人の縁から、1966年(昭和41)に北炭(北海道炭礦汽船)の炭鉱で働くことになる。37歳で「清水沢炭鉱」で日本のエネルギー産業を支える一員になった。 石炭産業が隆盛を誇る時代でもあったが、三井財閥に属していた北炭は、財閥解体後は三井グループの一員であった。三井鉱山の人員整理など争議も多かった。そして炭鉱と事故は、切り離せない関係にあった。 大沼さんが炭鉱マンになってからも1968年(昭和43)の夕張・北炭平和炭砿で坑内火災、1981年(昭和56)の北炭夕張新鉱ガス突出事故(戦後道内最大の事故)に遭遇。翌年、閉山となるまでの16年間、炭鉱マンの生活を続けてきた。少年航空隊といい、炭鉱マン生活といい、直接、命にかかわるような現場に接してきた経歴からすれば、今日の夕張市の変貌は、怯えるほどのこともないのかもしれない。その炭鉱マンとして卒業したのは、53歳の時であった。爾来、25年が経過している。 (8)夕張は北海道の10年後を警告するカナリヤ? ここに母親が夕張(北炭平和炭鉱)出身、そしてご自身は三笠市の北炭幌内炭鉱で育ってきた吉岡宏高氏(札幌国際大学観光学部准教授・今号特集1に登場)が昨年6月に北海道自治体学会フォーラムで基調報告した記録(「北海道自治研究」07年10月号・465号)がある。 そこでは「夕張がこのような事態に至った最大の要因は、自らが置かれている状況を客観視できず、そのためパラダイム(世界観や価値観)を変えることができなかったことにある。いま、夕張の人が一様に言うのは、『10年前に変えていれば、こんなにひどいことにはならなかった』ということである。これを翻って北海道の10年後に当てはめてみれば、今がその『10年前』に当たるのかもしれない」(同誌8頁)と北海道へ注意を促している。 夕張に50年以上住み続ける重司さんに遠い記憶と娘さんに現在進行中の近所の様子などをお聞きできた。このホットな夕張は、地方自治体とそこに住む人たちのあり方について、これからの北海道全体の行く末を暗示している。 着実に地域で生活しつづけることの意味を問い直すことから、困難を伴いながらも明るい展望も拓けるだろうし、それができなければ、もっと生活しにくい地域になる可能性もある。前者の道を選ぶには、どうすれば良いのか。知力と行動力が試されている。前出の18歳の青年が将来、大きく育って夕張に戻って来れるような状況を願っているのは、現在も夕張に住み続ける人たちの一致する気持ちだろう。 炭鉱でしばしば発生する有害ガス探知に警報器代わりにカナリアが使われていた史実を思い起こす。今の夕張がカナリアに思えてきても不思議ではない。カナリアを啼かない状況に追いやってはいけない。夕張を考えること、夕張を見つめることは、遠い地方の話を眺めることではなく、夕張以外に住む者たちにとっても足元を見つめること、そして次の一歩を踏み出す方向を決めることでもある。 ≪おわり≫ |
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