更新日:2008年4月10日(木)
特集
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(7)地域資産磨きは人との交流 私たち自身も気をつけたいのですが、知らないうちに「井の中の蛙」になってしまうことは多いものです。空知の産炭地を見ていますと、自分たちを取り囲む外部環境の変化に気づくのが遅れてしまった結果が、時代に取り残される状況を招いたように思えます。内部だけの情報で判断をしたり、限られた人としか付き合っていないと、知らず知らずのうちに社会判断が鈍ってしまうものです。 その点で夕張の映画祭などは、単なる観光客の呼び込み手段ではなく、地域外の知識資産を獲得して地域に刺激を与えるための貴重な「場」であったと私は捉えています。では、実際に受け止める側に、このような視点にたって、その素地なり意欲なりが十分であったかどうかは、今後、ある程度時間がたってから評価されることになると思います。 行動してみて地域の中で自分が動くことによって気づく、つまり腑に落ちる感覚を体感することはとても大切です。 例えば、夕張の清水沢地区の旧炭住街には、住民によって立派な花壇が設えられています。その活動を行っている人たちにとっては、例年行われる恒例の作業かもしれませんが、外から来た人たちに「きれいだねえ」と言われることで、「そうかなあ」と思い直すことになります。 高齢の方たちが時間もあることだから昔、身につけた技術を花壇に活かしてやろうか、という思いは、働きかけてみないことには出てこないものです。地域で快適に過ごすために一肌脱いでやろう、という気持ちは、活かす場があればこそ引き出すことができます。タイヤを加工して花壇を縁取りしたりするのは、坑内勤務をして過酷な条件下で働く技術を持った炭鉱マンたちからすると訳もないことですが、自分で公共空間を管理しようという発想も技術も機会も持っていない都市住民からすれば、すごいことです。 この花壇作りのノウハウは一例ですが、外の人からもらった評価で初めて気づくくらいに日常化している高い技術が残っています。往々にして人は、自分たちの活動価値を忘れがちです。人の交流はそうした日常性を打破する可能性も秘めています。 これは花壇ばかりではありません。産炭地であれば、町中に石炭関連施設が古びていても残っていますから、再評価のシンボルになりえるのです。いわば、地中に眠っている原石ですから、それを磨く人たちがいれば、住民の人たちにとっても新鮮な発見に通じます。 目に見えない地域に埋もれている資産、財産を運用することを積極的に考えていくために、私などは「NPO法人 炭鉱の記憶推進事業団」の立ち上げと、その代表を務めております。産炭地に住み続ける人たちに外の動き、外の空気を伝えるのが大きな仕事だと思っています。 最近の言葉では、こうした活動をする人のことを「インタープリター」などと言いますが、要は地域と外部を繋ぐ「お節介焼き」です。このような活動推進には、間に入る通訳が必要なのです。自然が発信しているいろいろなことを人間の言葉に翻訳して伝えるのがインタープリターですが、植生などの自然だけではなく、地域の文化や歴史についても全体性の中から関係性などを読み解く活動も求められる時代です。 これは、施設を作るような巨額の投資を必要とするものではなく、もっと少額のソフト面への投資です。これこそが21世紀の地域開発の手法だろうと思います。 (8)未来への投資 それは、これまでの反省に立つものです。従来の産炭地振興は、中央で用意されたモノを受け入れることで成り立つ世界でしたから、地域の実情、地域の歴史を踏まえたモノを創ることにはならなかったのです。地域住民にしてもそれらに愛着が湧き出るものにはならない、という何とも惜しい税金の使い方だったわけです。 これから生き残っていく地域というのは、過去の検証がしっかりできるところです。地域経営だって失敗や過ちがあるものです。そういう危険性を感じた時にそれを回避できるように振舞えるのは、過去をしっかり認識して、未来に向けて歩んでいる地域です。過去をキレイさっぱりと捨て去った地域は、同じ失敗を繰り返します。 自分のアイデンティティを考えてきた人たちが、地域に根付いて繰り広げる活動は、失敗の可能性が低くなります。そして、それが一番大事な「未来への投資」です。これを言えば直ぐに「今日を食えずして明日はあるのか?」という反問が返ってきますが、「今日生きたとして、明日をどうするのか?」と問い返したいですね。 昔のハード中心の地域投資は、大きな物を作って結果は稼働率に低い社会資本を蓄積してきました。要は投資先を間違えてしまったのです。今日のことで精一杯、というのは、そうしたことを繰り返すことになりかねません。その点では「未来への投資」は、カネをかけてモノを対象とするだけではないはずです。 地域にあるものを掘り出して磨く作業をすることも未来への投資です。例えば、人の活性化や育成は確実で担保のある話です。人や知識へ向けられる「未来への投資」はモノへの投資より有利です。 現在の日本で心配なのは、何でも緊縮とばかりに安ければいい、何もしないという方向で世論が形成されていることです。これも、行き過ぎでして、今までのように「出来ることに投資」「欲しいモノを作る」のではなく「やるべきことに投資」「必要なモノを作る」という軌道修正が必要です。文字では小さな違いのように見えて、実は大きな違いになっていく出発点だと思います。 「やるべきことに投資」することは、「出来ることに投資」に比べて、成果の点で確度は下がります。それを補うためには、情報の公開と進行具合のチェック、過去の蓄積を活かすようにすることです。 (9)分散型社会ゆえにチャンスあり 同じ炭鉱会社でも福島県の常磐炭鉱のように、娯楽施設で成功をおさめているところもありますし、釧路生まれの太平洋興発だって炭鉱会社から不動産業で活躍しています。三菱でも、九州の麻生だって、石炭の後も事業展開を続けていっています。それに比べると北炭は、どうしちゃったの? という感があります。国内でベストスリーに入る企業だったのが、どこかの段階で経営判断にミスがあったのでしょう。 経営の判断によって地域がどのように影響されるのか、今も続く生きた地域研究です。これは産炭地全体に言えることですが、地域を捉えるにあたっては視点場を創りたいと思っています。 行政も含めて産炭地に住む人たちは、自分たちが外に出ていかないと「外の目」を持てないのです。そのため国が言う通りにすることと、地域内部での情報交換でものごとを決めてしまったことが今日の状況を招いています。再三申し上げるように、自分たちを取り巻く外部環境の変化をキャッチするためには、もう一つの視点を持つことが必要です。 いわば、現在の自分たちの居場所を3次元で捉えることです。その比較対象は海外でも、国内の努力している地域でもいいのです。とにかく、外からの刺激を受けて、自分たちのところに取り入れることを意識すべきです。 そして、今は将来を見据えて流れを変えることだと思います。幸い、世の中の価値観が変わってきていることは、「知」の掘り出し、磨き上げ作業の追い風になっています。ここの勝機もあると思います。 今の時代は、かつての集中型から、気が付けば分散型に変わりしまた。工業社会時代のように都市構造が集中していれば変化も認めやすいのですが、分散社会はいわば「真綿で首を絞められる」的な変化です。知識社会の恐ろしさでもあります。 私の場合、札幌と産炭地の両方に足を置いていますが、両方の接点を構築するまでに新しい現実の積み上げに相当の時間を要すると思っています。1年、2年のスパーンで出来上がることでもないでしょうが、それでも活動を継続していると、これまでは「違うだろう」と言っていた人たちが、「そうかもしれない」と言うようになることは珍しくありません。新しい現実を受け入れる心の準備が出来てくるのです。 私自身の経験からも炭鉱遺跡のツアーを企画すると、それに参加する人たちが遠くからやってきます。多数ではないのですが、それでも確実に一定数の方たちがいらっしゃるのです。ここにも分散型の知識社会が到来しています。ニセコの海外からの観光客増加ともども観光の潮目変化の象徴だろうと思います。 (10)NPO活動の長所 われわれのNPO活動は、一種のゲリラ戦ですが、分散の次代にはこうした取り組みが有効だと思います。昔でしたら、○○連絡協議会というような組織を作って地域活動を推し進めましたが、どうもそれだけではないように思います。 むろん、このことが100%成功する事業という保証はありません。しかし、確実に言えることは、ここで何もしないでいたら、地域衰退の加速度は増すばかりだろうということです。 1971年(昭和46)に三笠市では住友奔別炭鉱が閉山したのですが、1年で1万人が流失しました。一つの集落が消えてしまうのです。その時になってから地域の将来を考えることは難しいものです。しかし、そうなる前なら落ち着いて地域のことを見直すことができます。変化の波が来た時に考える、というのではもう遅くて、津波の襲来のように到来してからでは間に合いません。 予兆を感じるためには、多様な情報ソースが必要です。NPOなどのような多様な人たちが集まっている団体との協力関係には、そうした現実的なメリットもあると思います。 現実をしっかりと見つめるという点では、私が大学を卒業する際の論文は「北炭の経営史」についてでした。長い間、炭鉱経営史は「経営者悪玉論」「労働者善玉論」のあまりにも乱暴な2元論しかないのが実情でした。マルクス経済学がまだ力をもっている時代だったとはいえ、実際に炭鉱に生活してきた身から見ると、静的で単純な構図だという印象を持ちました。 (11)石炭産業の残したものから学ぶ 経営者にも素晴らしい人はいますし、悪人ばかりのはずもないのです。同時に労働者も善人だけでないことは、世間一般の姿と変わらないと思います。社会学も経済学も「会社経営史」には、あまり注目してこなかったものですから、尚のこと、自分の育ったプロセスと重ね合わせて、頭で理解した炭鉱世界でないものを意識しました。一方的に偏らない視点で現実を捉えようとする作業は、その時も今も続いているかもしれません。 現地、現場には「知る」ことの面白みを再認識する場面に溢れています。 「知る」ことは、いろいろな相手と話をしていて、そこからアイデアも浮かんでくることですし、自分も変化するプロセスです。街づくりを進める際に、国や北海道庁の指示にだけ従っていたのでは、そうした変化を起こすこともないでしょうし、柔軟な発想も生まれるはずもありません。要は地域は情報ソースを複数、もっていることが大事だと思います。 その点では、父親がやっていた仕事は、給与格差の大きい坑内勤務の人と坑外勤務の人、職員と鉱員といった、異なる立場・要素を繋ぐ役回りでした。労務担当ということで実に多様な人たちが集まっている炭鉱会社を、組織として動きやすいように人と人を結びつけていたのだろうと思います。職員も鉱員もよく知っていることが仕事です。現在の私の地域へのかかわりも、情報ソースの確保、拡大するところは随分と父親の仕事と似ているなあと思うこともあります。 かつてのリーディング産業だった石炭産業から生まれていった芦別の「北日本精機」などは、炭鉱で使っていたベアリングから成長していった優良企業ですし、植松電機という会社も、芦別で炭鉱の電動機のコイル巻きをしていたところです。現在は、北大の先生方とロケット打ち上げの事業に取り組んでいます。新千歳の滑走路も、もともとは北炭の坑木を育てていたところを利用しているのです。 ルールが変わった時に人は、企業はどう生きるのか。産業の変遷では、産炭地などはさんざんルール変更に直面してきているのですから、ある意味では鍛えられています。その経験知を前向きに活かしたいものです。少なくない石炭産業の子孫たちも視野に入れて、夕張を代表にして空知の産炭地の復活を目論見たいところです。 そのためにも、知恵を集め、汗を流していきましょう、という旗振りをしていることになります。今の活動は、全て未来に通じていると確信している次第です。 ≪おわり≫ |
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