更新日:2008年3月12日(水)
ぶらりしゃらり
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| 前回のこの欄で、太平洋戦争の末期にソ連がいきなり宣戦布告をしてきた歴史について、独裁者スターリンが、「日露戦争の復讐である」と語った、という意味のことをぼくは書いた。 ずいぶんと乱暴な理不尽な敵討ちだったわけだが、最近、ふとした機会に群馬県の伊香保温泉にある徳富蘆花記念文学館を訪ねて、そのことをあらためて想った。 徳富蘆花(1868〜1927)は、長編小説『不如帰』で世に出た小説家で、ロシアの文豪、『戦争と平和』などで知られるトルストイの人道主義に傾倒した。伊香保を愛して、ここで死を迎えた。 記念文学館は、山々を見渡す素晴らしい場所にあって、しばしの時を過ごせば、おおいにこころ洗われることうけあいである。 蘆花が、はるかロシアにトルストイを尋ねたときのことは、『ヤスナヤ・ポリヤナの五日(抄)』(徳富蘆花作品集『梅一輪 湘南雑筆(抄)』講談社文芸文庫)という作品に書き残されている。 「別に用事はなけれども、唯何となく顔見たくてはるばる東より旅し来りし余は、今トルストイ翁の清居を驚かさむとす」という書き出しにはじまる小品は、まことにこころ温まる内容である。 ところで、共産主義国家ソ連の独裁者スターリンの、「日露戦争の復讐」との関連でいうなら、徳富蘆花がトルストイを訪問したのは、日露戦争が終わって、1年もたたないことのことだった。 ロシア語はまったくできず、英語だけの日本人が、単身、戦後間もないロシアを旅したのである。しかしロシア人はじつに親切であった。 そしてトルストイは、一家をあげて歓迎してくれたのである。蘆花は、トルストイ翁に会うなり、ロシア政府の横暴は許せない、日本の勝利に満悦している、などと息巻いたのだが。 トルストイは、ついこの間までの敵国からやってきた、「どこの馬のホネ」だか知れない中年男に、居心地のいい一戸建ての住まいも食事も提供してくれて、ややこしい議論にも応じてくれた。白樺の林のなかの離れの窓の外には、リンゴの枝が垂れ、花壇もあり、「十年も住みたき書斎よ」といった感じであった。 トルストイとスターリンをいっしょに論じるのは乱暴きわまりないけれど、「復讐」というなら、徳富蘆花は相手にされずに放り出されても仕方がなかったはず。 日露戦争が終わって、9ヶ月後のトルストイと、40年後のスターリンと、比較しても意味はないかもしれないけれど、妙に気になる対比ではないか。 たとえば、進駐軍の兵士に「ギブ・ミー・チューインガム」とまとわりついていたぼくが、それから60年もたったいま、いきなり「復讐」を叫ぶようなものかしら。 伊香保のステキな徳富蘆花記念文学館で、トルストイ夫人が撮影してくれた写真の、馬車に乗るトルストイと徳富蘆花の姿を見つめながら、ぼくは、ロシア→ソ連→ロシア、と変化してきた、現在のロシアのなかに、「敵国人」徳富蘆花を歓迎してくれたトルストイ的心情が、さてどんな具合に残っているのかどうか、想うことしきりであった。 記念館から眺める雪山は美しかった。 |
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