更新日:2008年3月10日(月)
ブラキストン線
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日中間におけるギョーザ問題、日米間における“疑惑の銃弾”裁判の再燃、次々と話題はつきないが、なんといっても防衛省をめぐる不祥事によって、日本の防衛問題の中心が変わってしまったことである。 守屋事務次官の汚職問題で浮上したのが、山田洋行という商社の存在であった。またイージス艦「あたご」と漁船の衝突で明るみに出てきたのが、イージス艦と精強な装備をもった軍艦が国産であり、もとアメリカで開発された型であり、アメリカが27隻、日本が4隻、スペインが3隻所有しているとのことであった。 考えてもみるがよい。戦後の日本で、なんとか再軍備を押さえこむ方法として、国民総生産の1%以内という防衛費の枠をつくり、ながい間、それがひとつの目安になっていた。憲法第九条の平和条項の規定を尊重しながらイラク戦争への国際協力ということで、日本は災害救助、経済支援という後方任務に限定して“海外派兵”を行った。それはまさに苦渋のなかの工夫であり、選択であった。 世論に大きな反対はなく、国際世論は歓迎ムードだった。こうした一歩前進が、守屋問題、イージス艦問題で帳消しとなり、あとに残されたのは日本での産軍複合体の存在であり、日本はもはや核武装を除き、軍事大国ともいえる重装備の国家となっていたという現実である。 憲法と現実の乖離 一方で念仏のように平和憲法を称える人々と、他方であくなき膨張をはかる人々の間で現実は分裂症状が進行していっている。 しかも今回の不祥事で憲法改正運動が先送りになってしまったことである。日本人は自らの手で自己を統御できない。 政府は官僚機構と民間企業との間の正常な関係だけでなく、内局の背広組と制服の間の本義の存り方を統御できていない。本来、シビリアン・コントロールの意味が矮小化され、内局が制服組の上に乗っかった形がおかしい。政治の軍事に対する優位は、首相の最終的決定権でなければなるまい。 首相が制服組(統合本部)と直接、対話しかつ情報収集できないのはおかしい。今回の不祥事は防衛省内部の不統一をさらけ出してしまったが、こうした問題を含めて、体制自律の整合性をはかり、国民の審判を仰ぐことにしなければ、日本国家はあやうい。 憲法改正論議は遠のいてしまったが、これは国家とはなにか、統治機構とはなにかを根本的に問い直す好機として捉え直した方がよいのかもしれない。そこまで議論を深化させなければ、日本は立ち直らない。憲法は憲法典である前に、国家構造そのものであり、コンスティテューションとは、構成する、構造化する意味であることを自覚すべきだろう。 英文学の深瀬基寛氏(1895〜1966)はバジョットの“English Constitution”を『英国の国家構造』と約した。私は含蓄ある名訳だと思った。ところが、専門の行政学者が、また『英国の憲法』という訳に戻してしまった。 日本の憲法論議が深化しないのは、こうした学界の状況も反映しているのかもしれない。新世代の奮起を望みたい。 |
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