更新日:2008年2月18日(月)
特集
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(下)5.武芸のひらく可能性 6.新しいスポーツ文化を発信するために 5.武芸のひらく可能性 武芸だけの話ではないが、身体技法を伝承するには、弟子は師による模範の姿を真似しつくして形成される型が重要視される。 それでも「型にはまる」と個性や独創性をなくしてしまうという意味に解釈し、「型にはめる」ことを嫌う人もいるように聞く。しかし、型にはまることで自由になれないのではなく、むしろ型にはまるからこそ生み出されてくる創造性があるのではないか。 型の修得のため師の姿を詳細に真似るには、足の位置、脚の形、腰や体軸の動き、腕や手の所作、目付、力やスピード、リズムや呼吸など、その要素は挙げればきりがない。修行段階としては、身体の動きを機微に意識して精確にコントロールする、思うように動く、自然に身体が動くといった大きく分けて3段階ある。 はじめの段階では、意識しても思うように動けない身体が現れる。考え方を変えれば、身体を客体的にとらえてコントロールされるべき物として現れるということである。 つまり、身体は意識とは別の物だからこそ、言うことをきかないと感じる、もしくは言うことをきくとも感じられる。いずれにしろ、師の姿を客観的にとらえて自分の姿をそれに似せていくのだから、師の姿や鏡に映る自分の姿はもちろんのこと、さらには師も含む他者からのアドバイス、理解した内容などは客体的な自己の外にあるということが、問題になる。 というのも、身体各部の位置や形、動き方などを詳細に確認すればするほどに、その型は分節化されていかざるをえない。 つまり、意識的に型を理解するためには、身体運動を言葉で表現していくので一連の流れがとぎれてしまうのである。もう少し具体的に、武術において相手を投げる技を例に挙げると次のようになる。 (1)相手の攻撃を捌く (2)相手の体勢を崩す (3)相手を投げる とこのように動きを表現すれば一連の動作を3つに分節化することになる。 さらに(1)の捌きの動きについても、 a.右足を引きながら、 b.左手で突いてくる相手の右腕を受ける、と説明すれば2つに分節される。 そしてさらに、 (1)右足を引くときには左足に重心をかけ、 (2)右腰を引き、 (3)右足の引き方を腰と連動させ‥‥ となれば際限なく分節化されてしまう。 型を修得する際、意識的に身体をコントロールすることは、このように身体運動の流れを分節化して、思考しながらからだを動かすことになる。だからこそ、必然的に意識とからだの動きにはずれが生じる。 反復練習によってそのずれも少なくなり、次第に動きが慣れてくれば、思うようスムーズに動けるようになる。コントロールする意識と身体の反応が一致する段階である。 それでも、意識と身体が分けて理解されている。とにかく、型の修得に際して、また、身体に対して主体的にはたらく意識的な自己が現れないようになっていく段階へと進む。自覚的な認識判断や意識を超え、自然に身体が反応して状況に合った動きが生じる段階へ近づいていく。 こうなると意識して筋力を動かすのではなく、力みがなくなり、型から生み出される力が感じられるようになる。ところが、稽古の段階では相手の攻撃が想定されているため、まだ認識的な行為であり、身体を型にはめている段階である。 実際の攻防は想定外で起こるのであり、型を準備して行えるわけではない。型を意識した構えはそれに合致した攻防には対応できるが、そうでない場合には意味をなさない。不意に襲われたときでも、自然とからだが反応し、気づくとその型がなされていた、となれるのが最終的な理想的段階である。 とすれば、どのように対処するべきか意識してからだを動かすことや、構えることを止めなければならない。型や構えを捨て、どのようにも動けるニュートラルな状態である。型はあって、無い状態とも言える。自然体と言われる状態で、はじめて創造的な技が生み出されるのである。 では、対人的な武芸ではなく、的を射る弓における型の修得についてオイゲン・へリゲルによる述懐(オイゲン・へリゲル著、『弓と禅』、福村出版)を紹介したい。彼が弓術を始めるきっかけや師の阿波研造に習いはじめた頃の様子などは著作に譲り、ここでは上述の3段階目にあたる逸話から考えてみたい。 オイゲン・ヘリゲルは、型通りに行えばやわらかく矢を放てるようになっていたが、的を射られるかどうかにその射の善し悪しを重ねてしまう。というのも、弓を引き、矢を放つのは的を射ることが目的であり、弓を引くのはそのための手段であると考えていたからである。 しかし、ヘリゲルは阿波に、弓を引き絞る時に意識的に引こうとするのではなく、ただ「からだ」が型をなぞるように働くのを待たなければならないと諭された。矢を放つからといってどこにも目的を置くことなく、すなわち的をねらうこともなく、ただ型通りに「からだ」の働きに任せて弓を引き、矢を放たなければならなかったのである。目的をもって意識的に身体や弓をコントロールしようとすることを、何度もヘリゲルは戒められている。 それでは、「私は何をすればよいのでしょう」と、たまらずにヘリゲルは思索しながら阿波に詰め寄る。すると、次のように阿波は答える。 「意図なく引き絞った状態の外は、もはやあなたに残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨て去ることによってです。」 どのようにしたらよく弓を引き絞れるのか、また、矢は射放されるのかを思索することも、的を射ることを狙うことも許されない。こうした目的や意図をもつヘリゲルの姿態を、阿波は意識的であると言い表した。したがって、ヘリゲル自身、すなわち意識的自己からの「離脱」が求められている。既知の範疇でなんとか意識的にコントロールをしようとしても、なんら新しいことは起こらない。むしろ意識的に振る舞うことをやめ、未知の領域への「離脱」が求められる。 そして稽古を始めてから4年目のある日、ヘリゲルはどうやったら射ることができるのかを尋ねるのだが、その時に「もし“私”がしなければ」とつけくわえた。すると、阿波は「“それ”が射る」と答える。 現実としては「ヘリゲル」が弓を引き矢を射るのではあるが、意識的自己を「離脱」して弓が引かれ矢が射られるのであるから、「“それ”が射る」としか言い表しようないのである。 それから時を経たある日、ヘリゲルが一射すると、阿波は丁重にお辞儀をして稽古を中断させたという。そして、「今し方“それ”が射ました」と阿波は叫ぶ。しかし、阿波はヘリゲルに向かってお辞儀をしたのではない、と言葉をつないだ。というのも、完全に意識的自己を「離脱」して無心になっていたので、まるで熟した果物が落ちるように自然と放たれたその一射にヘリゲルの責任はまったくないのだから。 そして、阿波はその一射へのお辞儀は讃辞ではなく、断定にすぎないとも言う。徹底して無我の状態を説いてきた阿波であるから、自然にお辞儀もなされたのではないだろうか。そこまで徹底したニュートラルな状態、自然体になっているのである。 ある意味では徹底的に型にはまることで、意識的自己をなくし、無我の境地にいたると非常にクリアな状態になり、身心ともにバランスのとれたニュートラルな状態になれるのではないか。 バランスがとれているというのは、確固たる軸を得ているというのとは違う。むしろつねに揺れ動き定点をもたない軸であり、だからこそいかようにも動ける。型にはまるというのは、鋳型にはめられたような身動きがとれない状態ではなく、無駄の省かれた自然体となることをいう。その状態では、五感すべてが動員されて新たな「感性」がうまれてくる。 ここまできて、武芸がニュースポーツとしての新しい可能性をひらく身体技法であると言える。近年の「身体論」の流行において武芸の身体技法が注目される所以もここにあるのだろう。 6.新しいスポーツ文化を発信するために これまでのスポーツ科学は、近代スポーツの隆盛にあわせてそれを補完するための競技力向上に寄与するもの、健康志向にアプローチするための医科学的なものが主流であり、今もそうである。 しかし、これまで述べてきたようにスポーツ文化を取り巻く環境は大きく変動している。これからのスポーツ文化を考えるためには、私たちの生活する世界の抱える問題や身心という個人的でもあり普遍的でもある問題を見据えていく必要がある。そして、新しいスポーツ文化について発信できるようにならなければならない。 平成19年度に札幌大学文化学部はスポーツ文化コースを新設した。これから私たちは「感性」を磨き、新しい「身体的アート」としてのスポーツ文化を発信する拠点となるべく、先人の志を引き継いでいきたい。 参考文献 稲垣正浩著、『スポーツの後近代』、三省堂 稲垣正浩著、『身体論 ―スポーツ学的アプローチ』、叢文社 金芳保之・松本芳明著、『現代生活とスポーツ文化』、大修館書店 拙著、『武と舞の根源を探る』、叢文社 ≪おわり≫ |
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