更新日:2008年1月16日(水)
ブラキストン線
|
||
政治評論家・岩見隆夫によれば(毎日)、2007年の政界での流行語大賞は、自民党の前幹事長・中川秀直氏の「霞ヶ関埋蔵金」だそうである。まさに40兆円に近い特別会計は、日本国家の予算を不透明なものにしている。初期の動機は、議会の族議員の掣肘を受けず長期的・安定的に事業の執行をはかるための処置であったろうが、今日では予算を硬直化させ、国民の眼から解りにくい性格のもにしてしまっている。そうした予算運用を恒常化させた、旧大蔵省の責任は重い。 その暫く前の流行語は“格差社会”であった。バブル崩壊後の日本社会は、企業も自治体も、正規職員を減らし、便利で低コストの契約社員で、コスト減をはかった。 この処置も日本社会を構造的に暗くしている。なにもしなかった労働組合も悪いが、日本的経営の美徳を破壊してしまった経営者はもっと悪い。若者が、国家だけでなく、企業への忠誠心を失った背景に、この問題があることはまちがいない。日本社会は待遇のよい無能な正規職員と、能力がありながら待遇の悪い、不満分子の契約社員の二重構造となった。この問題は学校教育の問題と並んで日本社会に長期的問題を残すことだろう。 格差社会の前には、“セイフティ・ネット”(命綱)という言葉が流行った。サッチャーもレーガンも出なかった日本社会は、いつか福祉制度への荒療治を迫られていたのだが、年金問題で、厚生官僚の構造的サボタージュが明るみに出た。 国民のための国家を もはや、個別の省庁の問題ではない。防衛省から警察庁、公安調査庁に至るまで、根幹が腐っていることが明白になった。もはや、日本は国民のための国家をもっていない。満身の力を振りしぼって、こうしたガンジガラメの鎖を断ち切らなければ、国民の国家は生まれない。福田首相の、C型肝炎に対する処置は、そうした決断の具体化として第一歩となるだろう。 と同時に、飯尾潤氏の『日本の統治構造』というようなマトモな議論がようやく生まれてきた。ながい間、“国家学からの政治学の解放”という丸山眞男テーゼ以来、政治学は政治現象一般を扱い、国家の問題から逃避してきた。だから亜流マルクス主義の階級の搾取期間としての国家といった歴史学の観念がいつまでも支配した。日本の教育界が、日本の近現代を語れないことにも関連している。 天皇と国家、議会と軍部、議会と官僚、国民と国家、政治学の教科書のような基礎的なテーマを再構築しなければならなくなった。情けないことだが、その問題を回避して過ごすならば、日本は三流国家に転落する。あるいは国家を失って、ユダヤ人のように、世界を漂泊する民族となるかもしれない。 もともと、戦後日本が、豊かな社会を実現し、先進国社会の一員となったという自画像は、コトの一面にすぎない。敗戦国日本は米軍の基地の下に存在している。ソフトパワーとしての日本の文化力が、国際社会の有効な動因として機能し、“美しい国日本”を誇れる状態になるためには、きわめて高度な芸が必要なことを認識すべきだろう。 |
|
|
|
![]() |






