更新日:2008年1月9日(水)
特集
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6.300年前にロシアで日本語学校 7.ウクライナと北海道の歴史的共通点 5.極東ロシアと北海道の相似性 空海の話から、この夏から秋にかけて、北海道との縁も浅からぬロシアに行ってきた体験なども含めてお話をします。 ロシアは北海道に生きる人にとっても、道産子でもある私にとっても、大変に重い意味があります。中でも極東ロシアは、ことさらです。北海道の人たちは気付いていないかもしれないのですが、極東ロシアと北海道は歴史的には、双生児であるということができるのです。 前回にも少しお話をしました(「しゃりばり」307号掲載「極東ロシアと北海道の新しい時代」『世界潮流と10の選択ポイント』(4)所収)。ロマノフ王朝時代(1613〜1917年)のロシアは、1860年に北京条約によって清から獲得した沿海州の南部にウラジオストックという街の建設を始めたのですが、ご存知のようにその都市名は「東方を支配せよ」の意味であり、東方領土の拠点都市でありました。ロマノフ王朝の野心をストレートに表現している都市名でした。彼らはヒタヒタと東へ進出してきていたのです。そして日本海、太平洋へ通じる不凍港は、ロシア悲願の地でもあったわけです。これは、日本の幕府が崩壊する7年前のことになります。 今回サンクトペテルブルグに行ってみて、ロシアの東の出口であるウラジオストックと西の出口であるサンクトペテルブルグが、私の中で繋がり始めました。これは私にとって今夏の大きな成果なのです。 ペリーが浦賀にやってくる半世紀以上も前、ロシアからはレザーノフが根室にやってきたり、プチャーチンが来たりしています。これに危機を感じた幕府が蝦夷地(北海道)を守らなければという意識を持ち始めたのです。 松前藩に任せていた蝦夷地の統治を東北の雄藩である南部藩などに北海道防衛の役割を与えて、だんだん北海道開拓というコンセプトに近づいていった理由は、ロシアを意識したからです。北海道はロシアの脅威ということが背景にあって、極東ロシアと一緒に育ってきたとも言えるのです。 日本側幕府にしても、明治政府になってからの北海道は開拓使にしても屯田兵にしても、ロシアの極東支配を意識した相似形で成り立った島であったと言えます。私たちは、その島に生まれ育ってきたのです。 6. 300年前にロシアで日本語学校 今回、サンクトペテルブルクで驚いたのは、そこで日本語学校ができたのは、1705年だったことです。今から302年前に同市で日本語学校が開校していたという話は、悪い冗談ではないかと思ったほどです。1705年にできた日本語学校の事情を聞いてきました。大坂の漂流民伝兵衛がカムチャッカに流れ着いたところから史実は始まります。当時は船で江戸を目指して太平洋を航海していくと、難破してしまうと海流の関係でカムチャッカに行ってしまうのです。ですから江戸時代を通じてロシアに行ったというより、行ってしまった大黒屋光太夫なども有名ですが、相当の数の日本人がロシアと接触していたことになります。 当時は北前船も多くありましたが、そうした船は難破しかけると当時の宗教的な背景もあるようですが、船に乗っていた者たちは髪を切り落として、神に命を託してしまったそうです。その上、船の帆柱も切り落としてしまったと言います。そうすると、船は制動を失いますから漂流するしかないのですが、ジョン万次郎(1827年生)のように土佐清水から初の漁に出て、シケに遭って漂流。太平洋の孤島、鳥島で無人島生活をしてアメリカの捕鯨船に助けられて、ハワイを経由して日本人最初のアメリカ本土の土を踏む人間として記録される人物もいました。 さて1697年にカムチャッカ半島の西岸で先住民族の捕虜になっていた伝兵衛ですが、ピョートル大帝に会うためにサンクトペテルブルクに向かいます。そして、ロシアの子弟に日本語を教える命令を受けて、日本語の教師になります。 サンクトペテルブルクという街は、1703年に人工的にピョートル大帝が創ったところです。この大帝は大男だったそうですが、若い頃、身分を隠して欧州を歩き回っています。オランダで船大工として修業したりもしています。アムステルダムが気に入ったようで、ネヴァ川河口の三角州に同じような街を創ったのです。 現在「北のヴェネツィア」と言われますが、原形はアムステルダムです。その街に1705年には、日本語学校ができていたのです。そして、その後、次々と漂流してきた日本人たちが、日本語学校を維持していくのです。 1754年にはその日本語学校がイルクーツクに移転しますが、1816年まで日本語学校は続いています。このあたりからロマノフ王朝の日本及びアジアへの関心が高まって、1870年、サンクトペテルブルクの帝国大学に日本語教育がスタートした資料があります。このようにロシアは300年間、継続的に日本語学校を維持してきていることが分かるわけです。 日本人の歴史観としては、日本の近代化というのは1853年のペリー浦賀来航あたりから考え出します。岩波書店の「日本近代史年表」もこの1853年からスタートしています。これはアメリカを通じてしか世界を見ないという歴史観が戦後、こびりついていることと相まって、私たちの歴史観も再点検する必要があるのではないでしょうか。 ペリー来航の150年前からサンクトペテルブルクで日本語学校が始まっていること、1792年にはラクスマンが根室にロシア最初の遣日使節として来ているのもペリー来航の60年前のことです。歴史的には、日ロ関係の方が日米関係よりもはるかにスタートが早かったことをもう一度確かめたいところです。 この間、さまざまなエピソードがあります。1803年にアレクサンドル1世が、石巻から漂流してきた4名の船乗りに謁見しているという史実もあります。これは日本人として初めて地球を一周して日本に戻ってきた人たちでもあります。この4人は、パリから来ていた気球を揚げる一行のショーを見に行ったりしています。この人たちは、レザノフの第2次遣日使節とともに大西洋から太平洋を航海して帰国します。その後、仙台藩邸で40日間も事情聴取されています。日本側の記録では、その聴取の成果ははかばかしくなかったようです。ここで対照的なのが、同じ船乗りのジョン万次郎です。万次郎はアメリカで教育を受けて、いくたの体験を積んで漂流してから10年後に土佐に帰ります。間接的に龍馬にまで影響を与えていることは皆さんご承知の通りです。 現在のサンクトペテルブルク大学の日本語学科にはプーチンの娘さんが在籍しています。同大には日本との歴史関係の資料が残っているのですが、ロシア側が日露の間にあった実に多くの歴史を彩ってきた人たちの資料をいかに取り揃えてきているか、これに肩を並べるだけの資料を揃えて対抗できる日本の施設はないのではないかと思ったほどです。 サンクトペテルブルクで日本研究をしている方々と会うことによって、驚くほどにロシア側が歴史を深く踏み固めてきていることに気付きました。 7.ウクライナと北海道の歴史的共通点 ロシアという国を考える際に1991年のソ連崩壊は、バルト3国をはじめとして15の共和国が分離独立していき、地政学的な意味では、日本の14倍の面積にもなる532万平方キロメートルが分離独立していったのです。しかもバルト3国の独立の意味は、ロシアにとって西側の出口を失ったことでもあります。そこでサンクトペテルブルクの重要性が改めて高まったのです。東の出口のウラジオストックは、アジアの大きなエネルギーとリンクする点でも重要拠点になっていることは言うまでもありません。 そして、ソ連邦にとっては南の出口が、オデッサでした。黒海に面した人口約100万人(2006年)の港湾都市です。現在は1991年のウクライナ独立にともなってウクライナ領になっています。これで、ロシアにすれば、南の出口を失い、西の出口であったバルト3国も失った時点で、西と東のサンクトペテルブルクとウラジオストックの意味合いは一層、大きなものになっているのです。 そこにこの国の宿命的なものが絡みついている歴史があります。前もお話させてもらいましたが、北海道の向こうにある極東ロシアの3州は、670万人のロシア人が住んでいるのですが、そのうちの3分の1はウクライナ人です。その歴史的な経緯は、1860年にウラジオストックの建設が始まっても人がいない、という理由からロシアは、ウクライナから人を農業移民という形で強引に連れていったわけです。それも、オデッサから5万7千人を19世紀の間に日本海を通って入植させたのです。 さらには、1917年のロシア革命に抵抗したウクライナの人たちを強制シベリア送りしたこと、そしてスターリンに逆らった処罰としてのシベリア送りもあったのです。この影響は、北海道にも及んでいます。旭川のスタルヒンの存在や、相撲の大鵬の父親はウクライナ人であることなどからも身近に歴史的な動きを感じ取れる話です。 このウクライナの移住の話は、北海道の明治維新前後の移住政策とも似ているのです。北海道の北見などは、高知からの北光社移民団が明治30年(1897)に入植しています。しかも、日本は満州国を支配していた頃、ソ連を攪乱するためにウクライナの独立を志向する人たちを裏から支援をしていた関東軍の存在もあって、日本とウクライナの関係は、因縁を引きずっているということができます。 サンクトペテルブルクに行きましたら、市長をはじめ幹部がウクライナ出身者がずらりと揃っている、というのです。この背景には、レニングラード包囲戦(1941〜1944)というドイツとの戦闘で100万人以上の市民が死亡したとも言われる史実が横たわっています。ここでも、戦後、人がいなくなったためにウクライナからの移住が進められたのです。典型的なソ連時代の移住政策のパターンですが、西の出口も東の出口もウクライナ人が押さえているという見方が成り立つのです。 ウクライナがこのようにソ連、ロシアの歴史と絡みつくようにして今日に至っていること、そして、そのウクライナと日本と浅からぬ縁があることなどを確認しておきたいところです。最新号の「しゃりばり」(電子版:07年10月19日配信)で特集にウクライナのことが入っているので驚きました。なぜなら、今後、このウクライナを私たちがどのような位置づけで見ていくかで、日本とロシアの関係、ユーラシア大陸の力学を見極める重要なファクターになってくると思われるからです。ウクライナに注目することは、今の時代を捉えるためには、極めて適切、かつ重要な視点なのです。 |
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