更新日:2008年1月9日(水)
特集
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寺島実郎 (財)日本総合研究所会長・三井物産(株)常務執行役員・早稲田大学アジア太平洋研究センター客員教授 プロフィール:1947年北海道生まれ。73年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。同年三井物産に入社。調査部、業務部を経て、83年より米ブルッキング研究所(在ワシントン)へ出向。その後、米国三井物産ワシントン事務所長(91年)、三井物産業務部総合情報室長(97年)を経て、(株)三井物産戦略研究所所長。 (本稿は寺島氏の了解を得て、07年10月26日(金)札幌で開かれた「21世紀遠友夜会」の講演記録要旨を構成したものである。文責・編集部) 全体構成 (上) 1. はじめに 2. 圧縮される歴史時間 3. 国際人のフロントランナー、空海 4. 時代に向き合ったプロジェクト・エンジニア (中) 5. 極東ロシアと北海道の相似性 6. 300年前にロシアで日本語学校 7. ウクライナと北海道の歴史的共通点 (下) 8. プーチンに率いられるロシアの高揚感 9. 「ミセス・ワタナベ」という隠語 10. 企業物価指数に見える日本産業のジレンマ 11. 会場からの質問に答える ・ プーチンのこれから ・ 年収200万円と若い世代 12.補遺:「苫東」を持つ北海道が宝の山に ■ 本稿は、寺島氏の了解を得て10月26日の講演記録の要旨を構成したものである。 1.はじめに 前回(2007年7月10日)の話から3ヶ月以上が経過してみて、日本にとってこの夏は何だったのか? という問いに対して私自身の考えを纏めてみる必要があるだろうと思っています。この夏、私自身が世界の現場に立って見てきた感覚をお伝えをしたいと思います。 7月以来、今日までの間にアジアに2回、アメリカの東海岸、欧州に2回、つい先日はロシアのサンクトぺテルブルクからモスクワへと動いてきました。そうした外の視界から日本を振り返って見るといろいろな思いにとらわれます。 今日は、「苫小牧東部開発」(1960年代に北海道苫小牧市を中心に工業地帯の創設を目指した国家プロジェクト=ウィクペディアに因る)の現場を見てきてから、ここに来ています。 今般、2000年に設立された「株式会社 苫東」(苫小牧東部開発株式会社の後継会社)の経営諮問委員会の委員長就任を依頼されまして、その委員会に先程まで出ておりました。北海道に関わる仕事については、当然ながら北海道出身の者として大いにエネルギーを注ぎたいと思うところです。(編集部注:苫東についての寺島氏の発言記録は、本稿の末尾に一部紹介いたします。出典は平成19年7月11日「国土審議会北海道開発分科会。第3回計画部会議事録」)。 2.圧縮される歴史時間 私にとって、今夏の経験として一番心が動かされたものに8月4日に行われた高野山夏季大学の講演があります。春先に毎日新聞から依頼があり、「ジャンルが違うだろうからお断りしよう」と思っていたのですが、86年続いている過去の講師陣の名簿を見せられて心が動かされてお引き受けしました。 講師には倉田百三(1929年)から司馬遼太郎(1973年)など作家の方々、あるいは日本近代思想史に名を残している内藤湖南(1927年)や1930年の新渡戸稲造、和辻哲郎、1931年の与謝野寛・昌子夫妻、1940年の折口信夫などなど多士済々です。 この講座は、1921(大正10)年に始まっているもので、戦争(日中戦争・昭和13年・14年と第2次世界大戦・昭和19年・20年)のため中止されたこともありますが、今年で83回目の開催でした。 この機会に空海(774年生)について調べてみようと思い、神田の古書店から空海に関する書籍を40冊程度取り寄せて、世界を移動する際に飛行機の中で読み進めました。 NHKの大河ドラマで武田信玄(1521年生)を取り上げていますが、今から約4百数十年前の戦国武将ということになり、われわれから見れば大昔の人物になります。その信玄が掲げていた旗指物の「風林火山」という言葉は、孫子の兵法からきています。孫子は2500年前の人ですから、武田信玄にしても2100年前の人であったということができます。昔、北京大学で講演をした折にお礼に孫子の兵法が刻み込まれたレプリカの竹筒をもらったことがあります。昔は腐らないように竹に文字を刻んだものなのですね。 歴史時間というのは遠景が圧縮されますから、われわれにとっては武田信玄も孫子も歴史の人ということで一くくりにできますが、信玄にとっても孫子はそうだったのでしょう。このことは、それほどに日本は中国の影響を受けていたとも言えるわけです。その信玄の時代から約300年以上前に越前に永平寺(1244年開創)を開いた道元(1200年生)もいます。道元も中国に渡った修行僧だったのですが、その道元の400年前に中国に渡っていたのが空海でした。日本と中国との間に続いている歴史の深さを改めて思うところです。 3. 国際人のフロントランナー、空海 全国から応募されてきた方から選ばれた700名の方々を前にして、私は蝉時雨の中、大講堂で「現代に生きる空海―経済人の視点から学ぶべきもの」という演題で話をしました。現代のビジネス界で生きている一人として、空海がどのように見えるかという話です。真言密教の解釈ではなくて、空海は世界人、国際人のフロントランナーだったということから話を進めました。 空海の生きていた時代、日本の人口は約500万人です。今の北海道くらいの人口規模でした。農耕を基本にした生活をしている国から青年空海は、その時代の超がつくほどの先進国に留学僧として中国(唐)に渡って行きました。当時、長安は百万人の人口を擁して、4000人のペルシャ人がいたと言われていますから、そこでの生活は、異文化の極限のような所だったと思います。ユーラシア大陸のさまざまな民族が流入していた多民族都市に迷い込むようにして空海は、衝撃的なまでの世界体験に近いものをしたのだろうと思います。 その空海が、ふるさとの日本を振り返った視線の先に何が見えたのだろうか? 司馬遼太郎さんが名著『空海の風景』を書かれていますが、あの司馬さんをして『空海の風景』というタイトルで、空海そのものに切り込むのではなく、空海の周辺を描くことで空海をあぶりだすような手法を使っています。それは、非常に理解できることです。空海という人物は、とらえどころがないほどの大きさと多面性をもっています。 2つ目の空海の見方として、空海の文献を読んでいきますと、空海がエンジニアだった姿が浮き上がってきます。彼は文科系の人ではなく、理科系の人だったというと分かりやすいかと思います。空海が中国から持ち帰った文献は、真言密教の経典だけではなかったのです。むしろ、技術に関わる資料、文献を信じられないほど持ち帰っています。 例えば、全国いたるところに空海が掘ったといわれている溜め池、井戸があります。灌漑治水という土木工学に関する技術を持ち帰ってきているのです。次に薬学です。今でいう漢方薬にかかわるさまざまな技術情報も持ち帰ってきています。それから冶金工学です。これは水銀にまつわる技術ですが、金を溶かす技術が当時は非常に重要だったようです。 4. 時代に向き合ったプロジェクト・エンジニア 彼は京都の東寺(とうじ)というところに828年(天長5年)学校を創りました。「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という日本最初の私立学校です。しかも仏教を教えるために開いた学校ではなく、庶民に門戸を開いて、手に職をつけるという技術を教える今で言えば各種学校に近いような存在です。 ここから空海という人物が、次第に別の色彩を帯びてきます。新たなプロジェクト・エンジニアの像を見せ始めます。彼は、朝廷さえ手玉に取るようにして京都の大中心部にある東寺をものにして活動拠点を確保します。その一方で深山幽谷の標高1000メートルの高野山に思索を深める場として大伽藍を創設しています。816年(弘仁7年)に高野山の下賜を働きかけていますが、布教の場と思索の場を用意する“したたかさ”というものが感じられます。 非常に単純化した表現になりますが、一般的に仏教の指導者が発しているメッセージというのは、とかく欲望や願望を押さえ込んで水墨画のような淡白さを旨とするような、諦めの哲学の趣があります。「名もなく美しく貧しく」とか「一隅を照らす者、世の宝なり」といった高僧といわれる良寛さんなどに私たちは惹かれる側面もあるのですが、空海は対称的なまでに極彩色のようなオーラを放っています。ここに空海俗物説の出てくるのも分かる気がします。 およそこの世の願望などに対して、背を向けずに正面から向き合っていった人間が見えてきます。彼の残した東寺にある立体曼荼羅などは、彼の世界観を象徴しているように思われます。異様な光と輝きを放っています。世に「弘法も筆のあやまり」という言葉もありますが、空海の論理的な意味での筆力も、美的な意味での筆力も突出していることが分かります。このように空海はある意味で完璧な存在であるために逆にとらえどころがない、ということもできます。 余談めきますが、世に最澄と空海を比較する議論があります。まったく同じ時期に遣唐使として中国に留学した二人ですが、最澄は選びに選ばれたエリートでした。一方、空海は中国に渡るまでは山林での修行などで足取りがよく分からない時期があったりしています。最澄が数ヶ月で帰国して、空海よりも数年早くに比叡山延暦寺を開きます。 やがて空海が最高位の権威的なものを身につけて戻ってきたところから二人の物語が始まります。歴史的事実として、最澄は空海に3回、アプローチをしています。空海の持ち帰った真言密教の経典を読ませてほしいということと、空海の弟子になって奥義を教えてほしいということでしたが空海は拒否します。しかし、最後は他の弟子たちと一緒に最澄を扱うことで、最澄にも配慮した形である資格を与えています。 ここで世には、最澄は凡庸で空海は天才だ、という説がかなり流布しています。空海ファンはこの説を好みますが、私は「本当にそうなのか?」という説を立ててみると、別の最澄が見えてきます。 私は「最澄はそうとうな人物ではないのか」と思うようになりました。それは、次のような意味合いからです。自分よりも年下で、相当に格下の権威もない状態で海を渡っていった人物である空海に頭を下げ、3回も自分で足を運んで教えてほしいということ言えるスケールの大きさは、尋常ではないのではないでしょうか。 「空海の後に空海なし」に対して、最澄の方は、延暦寺から「法然」も「親鸞」も「日蓮」も出ています。最澄が漂わせているある種の大らかさと、自分の後進にさえ頭を下げることのできる素直さ、スケール感は最澄の輝きだったのではないかと思うのです。 話を元に戻します。現世社会から背を向けて「名もなく貧しく美しく」というような空気をもつ一般的な仏教のメッセージに比べると、正面切って時代に向き合っていった空海に魅力を感じることと、その空海が不条理に満ちた現代社会に生きていたら、どのような見方をしただろうか、という視点は今の私たちの構想力を刺激してやまないように思います。 |
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