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更新日:2007年11月20日(火)
特集

ベラルーシの国民形成におけるチェルノブイリと戦争の記憶(下)



越野 剛 北海道大学スラブ研究センター学術振興会特別研究員

チェルノブイリの受容と記憶

 1986年4月26日未明、ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原子力発電所の4号炉で非常用の電源テストの実施中に、出力が急上昇する暴走事故が発生して原子炉が爆発、大量の放射性物質を放出した。原発から半径30キロメートル周辺は居住禁止地域(ゾーン)に指定され、住民14万人が強制移住させられて無人の地となった。
 ベラルーシ・ウクライナ・ロシアの三国にそれぞれ汚染地域が存在するが、とりわけ高濃度の放射能汚染を被ったのはベラルーシである。約200万人が今も汚染地域で生活しているとされ、他の二国に比べて人口的にも領土的にも小さいベラルーシにとって放射能被害の重荷は深刻なものとなっている。チェルノブイリ事故はソ連のゴルバチョフ政権を情報公開(グラスノスチ)などの改革路線にむけて踏み切らせた一方で、ウクライナやベラルーシではソ連からの自主独立を求める運動のきっかけとなった。
 
 チェルノブイリ事故は、自分たちの住んでいた土地が目に見えない放射能のせいで半永久的に住めなくなるという人類の歴史に前例のないような状況を作り出した。未曾有の惨事を人々はどのように理解し、どのように記憶したのかをここでは考えてみたい。その手がかりとしてSF、笑い、予言、戦争の四つの側面を取り上げる。

(1)SF的想像力とチェルノブイリ事故

 一般に人間は未知の事象を未知のものとしてそのまま受容することはできず、必ず何か似たものを探して類推する傾向がある。チェルノブイリ事故とその影響が明らかになるにつれて多くの人が思い浮かべたのが、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『ストーカー』(1979年)とSF作家ストルガツキー兄弟が書いたその原作小説『路傍のピクニック』(1972年、邦題は『ストーカー』)だった。(*)

 チェルノブイリ事故も新しい言葉の不吉な組み合わせを生み出した。第四号炉の放射能漏れを防ぐための「石棺」、汚染された建物を土に埋める「家の埋葬」、雀の涙の汚染地手当てを揶揄して言う「棺桶代」、汚染地出身の子供に対する差別語「チェルノブイリの針ねずみ」(髪の毛が抜けることを暗示)「ホタル」(放射能によって光るという連想)、事故処理に従事して被爆した「解体屋(リクヴィダートル)」、汚染地の資材を盗み出す「戦場泥棒(マロジョール)」、ゾーン内に住むことを選んだ人を指す「居残り者(サモショール)」などである。

 そのほかに「放射能」「ヨード」「甲状腺」「キュリー」「ベクレル」といった学術専門語が日常生活の中で頻繁に使われるようになったことも言語空間の歪みを示すといえよう。「きれいな」「きたない」という形容詞は放射能の有無をしばしば示すが、これも考えてみれば異様な状況である。(*)

 大江健三郎はNHKスペシャル『世界はヒロシマを覚えているか』(1990年)のための取材でSF作家アルカージイ・ストルガツキーと対話しているが、やはり『路傍のピクニック』(『ストーカー』の原作)がチェルノブイリ原発事故の問題を先取りしたかのように見えたと述べている。ちなみに私の見たところでは、日本からベラルーシを訪れる支援団体の方々の中には、汚染された森を見て宮崎駿監督のSFアニメ『風の谷のナウシカ』を思い浮かべる人が多いようである。

(2)チェルノブイリ事故と笑いの文化

 個人的自由の制限されたソ連社会で体制を揶揄するアネクドート(小話)の文化が花開いたことはよく知られている。その伝統は今も根強く生きており、チェルノブイリ事故にちなんだアネクドートも決して珍しいものではない。例えば、私が知人から聞いた笑い話には次のようなものがある。
 市場で婆さんがキノコを売りながら、「チェルノブイリ産のキノコだよ」と宣伝している。不思議に思った男が「そんなことを言ったら、誰もキノコを買ってくれないんじゃないか」と聞くと、婆さんは「いやいや、買って行きますよ。姑さんのためとか、職場の上司用にね」と答えた。同じ内容でも婆さんの売り物がリンゴになっているヴァリエーションもある。(*)

 日本であれば広島や長崎の被爆者を揶揄するような笑い話は決して許容されないだろうし、ベラルーシやウクライナでも全ての人が喜んでアネクドートを語るわけではない。しかし笑いのもつ豊穣な力でもってチェルノブイリ事故のような悲劇の視点をひっくり返す行為は、現実の不条理を受容するために用いられる文化的な技法だといえる。その伝統はソ連時代から現在のベラルーシにまで連続している。

(3)チェルノブイリの予言、あるいは記憶の改変

 ベラルーシやウクライナではチェルノブイリ事故が起こることはすでに予言されていたとう言説を耳にすることがある。「自然は生命にあふれているのに人間がそれに手を触れることはできない、そんな時が来るだろう」というような、おばあさんがむかし語って聞かせてくれた話が、いま思うと放射能による災害を予言するものだったという形式を取るものが一般的である。
 例えばチェルノブイリ原発で勤務していたある技師は、故郷の老人たちが「緑はあるが楽しみのない、そんな時が来るだろう」、「全てのものが揃っているが人は誰もいない、そんな時が来るだろう」という不思議な言葉を語っていたのを、原発事故が起きた後になって思い出している(シチェルバク『続・チェルノブイリからの証言』)。(*)

 子供の頃に聞いたきり忘れていた不思議な話を、自分の人生を左右するような大事件が起きた後になって思い出し、今思えば予言だったのだと気がつくというプロセスには、ある種の記憶の改変という作用が働いている。原発事故による大規模な放射能汚染という信じがたい出来事を、いくらかでも受け入れやすくするために予言を含んだ小さな物語が機能すると考えられる。作家アダモヴィチはヨハネ黙示録とチェルノブイリの災害の一致を知って世界観が変わるほどの衝撃を受けたと告白している。(*)

 チェルノブイリの「平和な原子力」が竜の牙を剥いて見せた時、ジャーナリストのおしゃべりや科学者の言い訳めいた呟きの合間に、ヨハネの預言からそのまま取られた言葉が響きわたった。「第三の御使いがラッパを吹くと、天空から大きな星が降ってきた...そして川と水源の三分の一の上に落ちた...その星の名前はニガヨモギという...」(ウクライナ語で「チェルノブイリ」はニガヨモギを意味する)。1986年の夏にある物理学者からこの話を聞いて、私の唯物論的・無神論的な知性が、説明不能なものの前に屈したのを覚えている。私はモスクワで行われた作家大会でヨハネの黙示録を引用して、公的な場で唯物論的知性を辱めることにした。会場はショックに包まれた。

(4)戦争の記憶とチェルノブイリ事故

 ベラルーシ人にとって第二次世界大戦の記憶が重要な意味を持っている点については先に触れた通りだが、チェルノブイリ事故の体験が語られるときにもナチスドイツとの戦争が類推の対象として思い出される傾向がある。およそ1000万人のベラルーシ人のうち200万人ほどが汚染地域での居住を余儀なくされたことを独ソ戦争の死者と比べて、戦時中に人口の四分の一が失われたが、今度は五分の一が放射能の危険にさらされたという言い回しがしばしば用いられる。

 アレクシエヴィチの『チェルノブイリの祈り』などは数ページめくるだけで戦争に関する記述を見つけることができる。中には原発事故についてインタビューしているのにも関わらず、延々と戦時中の思い出話を続ける老人もいて、記憶の中で二つの出来事が密接に繋がりあっていることがわかる。ナチスが侵略してきたときには多くの村が焼かれて消滅したけれど、戦後には疎開から帰った人々が村を再建することができた。しかしチェルノブイリの放射能汚染によって無人となった村に人々は二度と帰ることができない。このような考察が戦争体験との比較で繰り返し語られる。本橋成一監督がベラルーシの汚染地域に住む人々の日常生活を撮った映画『ナージャの村』(1997年)でも、立ち退きを拒否した老人がモノローグの中で同じような比較をする場面がある。(*)

まとめ:ベラルーシの国民形成

 ペレストロイカの進展はモスクワやバルト三国と比べるとベラルーシやウクライナは遅れがちだった。チェルノブイリ事故が発生して最初の数年間は情報開示が進まず、直後に住民が強制退去させられた30キロゾーンの外部にも汚染地帯が広がっていることは知られないままだった。
 そんな中で最初に声を挙げたうちの一人が戦争作家のアダモヴィチである。彼は1980年代の初め頃から核兵器の廃絶運動に積極的に携わるようになっており、チェルノブイリ事故が発生してからは被害者救済のため外国に支援を求め、放射能汚染の正確な情報を求めて政府の官僚的な秘密主義を激しく批判した。1989年の第1回ソ連人民代議員大会で当選すると、ベラルーシの深刻な放射能汚染をゴルバチョフに向けて訴えてもいる。

 ペレストロイカの後期にはベラルーシ人の間にナショナリズムの気運が高まったが、その主たる契機となったのはベラルーシ語の危機的状況、クロパティの遺骨問題、そしてチェルノブイリ原発事故だった。
 これら三つの問題はベラルーシを支配してきたソ連あるいはロシアに対するプロテストの心情を呼び起こした。とりわけ1988年にクロパティのスターリン犯罪を告発して有名になったジャノン・パズニャクが率いるベラルーシ人民戦線(1989年設立)はナショナリズム運動の司令塔の役割を果たすようになった。

 しかしベラルーシが実際に独立を果たしてしまうと、激しいナショナリズムは失速する。ロシア語とロシア文化に慣れ親しんだ大半のベラルーシ人は人民戦線が主張するような180度の方向転換にはついていくことができなかった。社会的経済的な混乱も独立したばかりの国家の将来に対する不安をかきたてた。そうしたなかで安定したソ連時代へのノスタルジーが人々の心情を支配するようになる。
 チェルノブイリ事故の悲劇はクロパティの死者たちよりもむしろ独ソ戦争の受難という伝統的イメージと響きあうようになる。1994年にはロシアとの統合路線を主張するアレクサンドル・ルカシェンコが最初の大統領選挙で勝利した。ルカシェンコが2001年に独ソ戦争の戦勝記念日に行った演説を見てみよう。

 大祖国戦争はベラルーシに甚大な被害をもたらしたため、共和国は新たに再建しなおさねばならぬほどだったのであります。人口数が回復するのに半世紀あまりも必要でした。
 しかしそこで新たなる戦争、新たなる悲劇が我々を襲いました。その名前はチェルノブイリであります。テクノロジーに起因したこの惨事の打撃は、ベラルーシ国民にとって第二次世界大戦の破壊的結果と等しいものです。恐るべきチェルノブイリ事故の物質的損害は数字で表すこともできましょうが、人々の健康を金銭で計算することはできません。国民の五人に一人が危険の下に置かれているのであります。

 チェルノブイリ事故が第二の独ソ戦争にたとえられているうえに、演説の続きではソ連の崩壊が第三の戦争、独裁的なルカシェンコ政権を打倒しようとする欧米の陰謀が第四の戦争だとされている。2001年の2回目の大統領選挙を意識したプロパガンダ的な演説ではあるが、現在のベラルーシ国民の多くが抱くソ連ノスタルジーを投影したものになっている。

 ベラルーシ人の国民意識は、第二次世界大戦やチェルノブイリ事故といった悲劇の体験を共同の記憶とすることによって形成されてきた。その連帯の感覚はベラルーシ人という自己意識に留まらず、ソヴィエト人という大きな枠組みにも馴染むものだった。チェルノブイリの悲劇をクロパティに象徴されるソ連の圧制の記憶に結びつける試みは今のところ国民の広い認知を受けていない。
 ルカシェンコの統治するベラルーシはロシアとの間に「連合国家」という中途半端な距離を保ちながら、そのアイデンティティを曖昧にしたまま迷走している。ベラルーシは近代的な国民国家を建設することには失敗したと見えるかもしれない。しかし排他的なナショナリズムが横行する現代世界において、曖昧で寛容な国民性を形成してきたベラルーシは、国家と民族のあり方を考える上で興味深い例となりえる。東西の狭間にぽっかりと空いた白い空虚のようなベラルーシだが、そこには受難の歴史と融通無碍でしぶとい人々の姿を見ることができる。
*編集部より・本稿の著者のさらに詳しい考察は下記のサイトで読むことができます。http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/kokai/2007/2007prog.html#nittei









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