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更新日:2007年11月20日(火)
特集

ベラルーシの国民形成におけるチェルノブイリと戦争の記憶(上)



越野 剛 北海道大学スラブ研究センター学術振興会特別研究員


プロフィール:札幌出身、1972年生まれ。北海道大学博士課程単位取得退学。2001-03年、在ベラルーシ日本大使館専門調査員(2001-03年)。スラブ研究センター21世紀COE研究員(2003-2005年)。現在、学術振興会特別研究員。専門はロシア・ベラルーシ文学。

(本稿は寄稿いただいた文章を3分の2程度にした抄録です。(*)部分が削除した部分で脚注なども省いていることをお断りいたします。なお、全文は北海道大学スラブ研究センターのホームページ(末尾にアドレス明示)で読めます。

 ベラルーシというソヴィエト連邦の一部だった東欧の小さな国について日本ではそれほど知られていない。本論ではベラルーシに大きな爪痕を残した20世紀の二つの出来事、独ソ戦争とチェルノブイリ原発事故を通して、ベラルーシ人らしさと一般に考えられている特徴がどのように形成されてきたのかを明らかにしたい。まず最初にはベラルーシにまつわる様々なイメージやステレオタイプを検討する。

名前の由来

 ベラは「白い」を意味し、大ざっぱに見ればルーシはロシアの古称なので、ベラルーシは「白いロシア」と翻訳できる。実際、ソ連から独立する前は「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」が正式な国名だった。(*)
 ソ連が解体する直前の1991年9月に国名が「ベロルシア(白ロシア)」から「ベラルーシ」に変更されたのだが、実は前者がロシア語で後者がベラルーシ語なだけで、どちらの意味も同じ「白いロシア」なのである。ソ連時代でもベラルーシ語の国名は「ベラルーシ」に変わりはなかったのであり、正確には国名の変更というより使用言語の変更なのである。(*)

 中世ヨーロッパでは「白い国」が東方にあると考えられていた。あるところでそれはラテン語で白い国を意味するアルバニアと結びつき、別なところではヨーロッパの東に広がるロシアという空間と結びついて「アルバルテニア」となった。ルテニアはラテン語でルーシを意味する。最近ベラルーシでアレシ・ベールイという文献学者がヨーロッパの古地図を丹念に調べ、白いルーシと呼ばれる場所が次々と移り変わっていることを示して話題になった。それによると、北のノブゴロドが白ルーシとされたこともあったし、黒海沿岸地域がそう呼ばれることもあった。ルーシの地で覇権を奪うモスクワ大公がやがて「白いツァーリ」の呼称を得るのもこれと関連する。白いルーシの呼称が現在のベラルーシ領内に定着するのはせいぜい17世紀のころであるらしい。(*)

歴史と言語

 歴史的にさかのぼってベラルーシという国の源流を求めることも実はむずかしい。ベラルーシの学校で用いられている歴史教科書を見ると、古都ポロツクが南のキエフ公国に征服されるという10世紀のエピソードから始まるものが多い。キエフ公ウラジミルに陵辱される公女ログネダの悲劇はベラルーシのバレーの演目として人気を博している。ポロツク公国を原初のベラルーシ国家と見なしてよいかどうかも問題だが、それが滅ぼされるところから歴史の記述が始まるのである。
 13世紀には北の隣人リトアニアがバルト海と黒海をつなぐ大国を築き、ベラルーシもその版図に含まれることになる。17世紀になるとリトアニアは「連合」というかたちで次第に西のポーランドに同化されるが、やがて18世紀末にはそのポーランドともども東のロシア帝国に併合されてしまう。このようにベラルーシの歴史は、周辺国家によって順繰りに支配されるという構図になっている。名目上とはいえベラルーシが国連に席を持つ国家の体裁を整えるのはソ連時代になってからなのである。

 ルカシェンコ大統領が推進しているロシアとの「連合国家」構想も場合によっては大国に呑まれ続けてきたベラルーシの歴史を繰り返す結果になるかもしれない。もちろんベラルーシだけが特別なわけではなく、東欧の小民族はみな大国の支配下で近代的な国民意識を育てたといえる。それらは過去に失われた栄光を「復活させる」というスローガンの下で行われるのが普通だったが、ベラルーシには復活させようにも国としての輝かしい歴史の素材に乏しいという悲劇があった。(*)

 歴史以上に深刻なのは言語の問題である。ベラルーシ人がベラルーシ人だというアイデンティティの拠り所として最も頼りにできるのは母語たるベラルーシ語のはずだった。しかしソ連時代の急速な都市化と相まって、ロシア語が日常生活の隅々まで浸透してベラルーシ語を駆逐してしまった。もともと両言語は互いに近い関係にあるため影響を受けやすかったともいえる。
 現在、都市部ではロシア語、地方や農村部では混成言語である「トラシャンカ」が主流であり、純粋なベラルーシ語を日常的に用いているのは恐らく人口の数パーセントに過ぎない。旧ソ連の共和国ではどこでも同じような言語の問題はあったが、独立後はそれぞれの民族語に安定した地位が与えられており、ベラルーシのように国全体でさらなるロシア化が進行するケースは珍しいように思える。(*)新聞や書籍などの出版物ではベラルーシ語もそれなりの存在感を保っているが、話し言葉としては危機的状態にあると言ってよい。

受難・寛容・曖昧(トゥテイシヤ)

 このようなベラルーシの国民性を論じる際によく耳にするのが、受難の国・寛容な国・曖昧な国という三つの性格付けである。前述したようにベラルーシの歴史は他国による侵略と支配の繰り返しとして読むことができる。17世紀のモスクワ大公国・スウェーデン・ポーランド=リトアニア連合間の戦争、1812年のナポレオンのロシア遠征、ドイツ・オーストリアとロシアが戦った第一次世界大戦、ロシア革命とソ連・ポーランド戦争、第二次世界大戦でのナチスドイツとソ連の戦争などでベラルーシの住民は甚大な被害を受けた。

 こうした一連の戦争におけるベラルーシ人の関わり方はいつも受動的に巻き込まれるかたちであり、民族意識に目覚めた少数のベラルーシ人グループが存在したとしても主体的なアクターとしてはほとんど影響力を持たないことが多かった。コサックの独立国家やガリシア地方のナショナリストなどが外部の勢力に対して一定の抵抗力を持ってきたウクライナとは大きく異なる点である。1986年のチェルノブイリ原発事故も隣国ウクライナで発生したにも関わらず、風向きなどが影響した結果、ベラルーシの国土が多量の放射能に汚染されることとなった。災難は常に外部からやってくるものとされ、受難の国ベラルーシというイメージが生まれる。

 他国の侵略を受け続けてきた受難の国という歴史観と密接に関係していると思われるが、ベラルーシ人には民族や宗教に寛容なメンタリティがあるといわれている。ロシア語の「チェルペリーヴイ(忍耐強い)」やベラルーシ語の「パミャルコーウヌイ(従順な)」という形容詞がベラルーシ人の性格付けとしてよく使われる。旧ソ連構成共和国の中で民族紛争(とりわけロシア人排斥運動)が起きなかった唯一の国だというのはベラルーシ人がしばしば誇らしげに口にする言説である。(*)

 ベラルーシ人の他者への寛容さは自己のアイデンティティの曖昧さと結びついている。自分たちがベラルーシ人であるというはっきりした意識がないことを揶揄する表現として「地元の人、土地の人」を意味する「トゥテイシヤ」という言葉がある。ロシア革命前の時代、「おまえは何人なんだ」と問われた農民たちは「俺たちはトゥテイシヤだ」と答えてベラルーシ人という言葉は使わなかったとされる。(*)

 このように人々の自己アイデンティティが狭い農民の地域共同体や貴族や聖職者などの社会的身分に限定され、広く国家や民族に同定されることがないのは、近代的な国民国家が形成される以前の社会であれば不思議なことではない。
 「土地の人」という自己規定はベラルーシと同じように独立国家の歴史を持たなかった19世紀のエストニア農民の間でも見られた。しかしベラルーシの特異な点は、「トゥテイシヤ」という否定的アイデンティティを現代に至るまで引きずっていることにある。(*)

戦争の記憶

(*)ベラルーシ人がひとつながりの国民としての一体感を達成したのはむしろナチスドイツとの戦争の記憶に拠るところが大きい。1941年に独ソ戦争が始まるとすぐにベラルーシはドイツ軍の支配下に陥ったが、数万から数十万人にのぼるベラルーシ人が非正規部隊(パルチザン)を結成してナチスの占領軍と戦ったとされる。これが果たして民衆の自発的な戦いだったといえるかどうかには疑問を投げかける声もあるし、ナチス側に加担したベラルーシ人が多くいたことも指摘されている。

 しかし多くのベラルーシ人が記憶する戦争は全国民が団結して闘い抜いたというものであり、戦後の社会でパルチザンは英雄として崇敬の対象となった。少年時代にパルチザン闘争に参加したアレシ・アダモヴィチ(1927-1994)はその体験をもとに創作活動に入り、ベラルーシを代表する戦争小説作家となった。
 映画化もされた処女作『屋根の下の戦争』(1960年)には、ドイツ軍占領下にあってパルチザンを密かに支援する農村の人間模様が描かれている。70年代のベラルーシ共産党第一書記ピョートル・マシェロフ(1918-1980)は今でも大衆的人気を保っているが、それは彼の名前が比較的安定したソ連時代へのノスタルジーを呼び覚ますという理由や1980年に交通事故で不慮の死を遂げたことの他に、マシェロフがパルチザン指導者の一人だった事実も大きいだろう。各地でパルチザン戦を体験した老人たちは、ベラルーシ人の英雄的戦いの生き証人として地元の名士として扱われることが多い。

 パルチザンの華々しい英雄的活躍の裏側でベラルーシ住民が戦争で受けた未曾有の被害についてもよく記憶されている。戦前のベラルーシ領内には920万人が居住しており、ドイツ占領が原因で死んだ人間は220万人と見積もられているため、一般に人口の4分の1が戦争で失われたと語られることが多い。とりわけベラルーシにおけるナチスの蛮行の象徴となったのが1943年3月22日に起きたミンスク州ハトゥイニ村の虐殺事件である。
 このときドイツ軍の懲罰部隊が不意に村に現れ、パルチザンに協力したとして149人の住民を小屋ごと焼き殺した。戦時中には数千の村がドイツ軍によって何らかの損害を被り、ハトゥイニのように住民ごと焼き尽くされた村も他に数多い。戦後1969年には村のあった場所に独ソ戦争の受難を追悼するための記念公園が建てられた。焼かれた家屋のひとつひとつが記念碑となり、ベラーシ人の4人に1人が殺されたとされる戦争の惨禍を示して3本の白樺が植えられ、4本目の白樺の代わりに「永遠の火」が設置された。(*)

 多大な犠牲を払って勝利した独ソ戦争をロシア人は大祖国戦争と呼んでその記憶に特別な敬意を払っているが、それはベラルーシ人も共有するところである。英雄的でもあり悲劇的でもある戦争の体験を共有することでベラルーシ人は国民的な一体感を得ることができたが、それは同時にソヴィエト連邦市民の共通体験でもあり、「ソヴィエト人」としてのアイデンティティを涵養するものだった。(*)

 ハトゥイニ村の事件とは全く対照的なかたちで歴史を記憶する場として、クロパティの遺骨問題を挙げることができる。ペレストロイカ期に暴露されたスターリンによる民族弾圧の事実は各地で反ロシア的なナショナリズムの覚醒を促したが、ベラルーシにもそのような契機がなかったわけではない。クロパティはミンスク市郊外にある森に囲まれた地区で、1937-1941年ごろにソ連の秘密警察によって数万人の住民が射殺されて埋められたとされる。(*)

 一方でクロパティの遺骨はナチスドイツによって殺された人々のものだという正反対の主張もあり、ベラルーシ政府も基本的にこちらの見解を取っている。いずれにせよクロパティ地区で殺された人々がいたことには間違いなく、粛清と戦争の時代に起きた出来事がどのような由来のものであったかによって、ベラルーシに対するロシアの歴史的な位置付けが変わるだけのインパクトのある問題と思われる。









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