更新日:2007年11月20日(火)
特集
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3.第二次世界大戦(1941−1945年) 第2次世界大戦は、王国ユーゴの政治的矛盾とナチスの伸張のために瓦解した王国ユーゴが、枢軸国によって分断され、民族同士の対立が最高潮に達した時代であった。ナチの傀儡政権ウスタシャによって作られた「独立国家クロアチアNDH」は、民族的に純粋なクロアチア国家をつくるという目的から、NDH内のセルビア人の三分の一は追放し、三分の一は抹殺し、三分の一はカトリックに改宗させるという計画による、セルビア人問題の解決を試みた。 この中で、キリル文字の使用が禁止され、正教会が運営するすべての学校は閉鎖され、正教徒は腕章をすることが義務付けられた。ウスタシャ政権はカトリックへの改宗のための手続きを簡略化(教会側は反対)し、「オスマン帝国、ユーゴスラヴィア王国支配下で正教に改宗した元カトリック教徒をカトリックに復帰させる」方針を明らかにした。カトリック聖職者の一部は、改宗政策に積極的に加担した。 ボスニアのフランシスコ修道会士は、この運動の先頭に立っていた。興味深いのは、改宗を迫られたのは、カトリック教徒の配偶者をもつ正教徒の夫/妻、下層の貧しい正教徒、等のみで、教師、聖職者、商人、裕福な手工業者・農民は改宗の対象とならなかったことである。このような有力者、知識人は抹殺、追放の対象とされたのであった。実際にカトリックに改宗したセルビア正教徒は20万人以上に上り、ウスタシャによって、抹殺されたセルビア人は、数字にかなりの開きがあるが、18万5000人〜70万人と推定されている。ウスタシャの残虐行為はセルビア人による報復を駆り立てた。セルビア人の抵抗組織チェトニクは、クロアチア人と、ウスタシャに協力するボスニア・ムスリムを殺害した。 共産党を中心とするパルチザンは、民族・宗教を超えて、占領軍とその協力者との闘争を呼びかけ広範な支持を集めた。パルチザンはこの抵抗闘争を戦い抜き、最終的な勝利者となった。 4.社会主義ユーゴスラヴィア(1945−1991年) 戦間期王政ユーゴにおける最大の問題、セルビア人とクロアチア人の関係は第2次大戦を経て更に悪化していた。社会主義政権は、第2次大戦を、共産党を中心とするパルチザン運動がナチス・ドイツとその協力者ウスタシャから国土を解放する戦いであったと一元的に解釈することで、ユーゴの諸民族同士の「兄弟殺し」の側面を意図的に覆い隠した。先に見たように、この「兄弟殺し」にはそれぞれの民族の宗教組織も大きく関与していたことから、大戦直後のユーゴ共産党KPJ(1952年にユーゴ共産主義者同盟SKJに名称を変更)の宗教に対する政策はかなり厳しいものとなった。 イデオロギーと抑圧的政策 社会主義ユーゴはマルクス・レーニン主義の伝統的な宗教理解に基づき、国家と宗教を完全に分離し、宗教を可能な限り私的領域に制限することを目指した。SKJ綱領は、宗教は「人間の物質的、精神的に遅れた歴史的諸条件の中で生まれ」るものであるが、「絶えざる社会主義的社会的諸条件の発展、すなわち科学の普及、相対的な人的意識の高度化」によってのみ、「人間の真の開放が実現し、さまざまな虚偽や幻想によってたつ物質的、精神的条件が取り除かれる」とうたっている。つまり、国家・党の反宗教政策によって宗教の根絶を目指すのではなく、社会主義の発展による宗教の無力化を目指したのである。 一方、実際の宗教政策は、ユーゴの政治的状況によって大きく変化した。第二次大戦後から1950年代半ば頃までは、宗教組織にとって厳しい状況が続いた。大戦後間もなく、宗教組織の中の「対敵協力者」が多数逮捕、投獄された。 カトリック教会は、ザグレブ大司教ステピナツAlojzije Stepinac(第二次大戦中のウスタシャ支配への協力の廉で投獄された)の裁判をめぐって、政府と真っ向から対立していた。1952年、バチカンがステピナツを枢機卿に任命したためユーゴはバチカンとの国交を断絶した。政府への忠誠を表明していたセルビア正教会とイスラーム・コミュニティにたいしても、組織内の反体制分子を徹底的に排除するように圧力がかけられた。 同時に、土地改革、私有財産の国有化によって宗教組織の財政は大きな打撃を受けた。KPJ党員、学校教師、地方行政の役人などによる聖職者にたいするハラスメントは、宗教活動にたいする妨害、宗教教育に参加する生徒とその両親にたいする学校教師による嫌がらせ、宗教施設の破壊、に加え、時には聖職者にたいする肉体的暴力に至る例もあった。戦後、公教育における宗教教育は選択科目とされていたが、1952年に全面的に禁止された。 これらの抑圧的政策に加え、政府は、宗教組織を政府に忠実な組織に変えていくために、主として社会保障、年金という名目で宗教組織に補助金を支給した。1953年には「宗教団体の法的地位に関する基本法」が制定され、それまで連邦法の大まかな規定に拠っていた宗教活動の法的な位置づけが具体化された。 自由化・分権化と宗教政策 1950年代後半以降1960年代を通じて進行した(初めは経済的、ついで政治的)自由化と分権化の流れは、徐々にではあったが宗教政策においても同様に見られ、それにつれて宗教活動も次第に活発化していった。 1950年代後半にはすでに、カトリック教会内部にも政府との部分的妥協を図る動きが見られた。1960年代に入るとユーゴは、バチカンとのプロトコル(協約)を巡る交渉を開始した。プロトコルは、1966年に締結されたが、この間、バチカンでは第二バチカン公会議(1962-1965年)が行われ、ユーゴでは1963年憲法が制定された。1966年のプロトコルの締結は両者にとって互いに歩み寄る政治的条件が整った結果であった。 プロトコルでは、ユーゴ政府がカトリック教会に対し、憲法によって保障されている宗教活動の自由を確認し、反対にバチカンはユーゴ政府にたいし、教皇庁のカトリック教会にたいする権限が信仰と宗務に関する問題に限定されることを約束した。このプロトコルによって、ユーゴとバチカンの関係が安定化し、政府とカトリック教会の間で妥協を探る動きが加速した。カトリック教会にとって、政府との対決にエネルギーを費やすよりも、徐々に広がった宗教活動の自由を最大限に利用して影響力を拡大したほうがより現実的であったといえよう。1970年ユーゴとバチカンの国交が回復され、1971年にはチトーが教皇パウロ6世と会談した。 1967年には、共和国の自立化を推進するマケドニアの共産主義者同盟のイニシアチヴにより、マケドニア正教会がセルビア正教会から独立した。また、1968年にはボスニア・ムスリムがセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、モンテネグロ人、マケドニア人に加えて、民族narodとして承認された。 この頃から、ユーゴ政府は、宗教活動を無理に抑圧すれば、かえって政府と宗教組織の関係にとって害になる、むしろ、ユーゴの政治的状況において正しい方向であれば自由に宗教活動を認める、という方向へ政策をシフトさせていく。換言すれば、宗教活動を宗教施設においてのみ、かつ必要最小限に抑える、という政策から、宗教間の平等と、宗教組織の内政への不干渉を前提に宗教活動を最大限に認めるという方向へ、方針転換したのである。1960年代終わりから1970年代にかけて、共産主義イデオロギーと宗教の関係(例えば、信者である党員の扱いについて)が盛んに議論されるが、結局両者の矛盾は棚上げにされ、宗教政策が逆戻りすることはなかった。 宗教活動の自由化の傾向は、1970初頭の民族主義の高まりによって一時抑制されたが、1980年代になって再び強まりユーゴ崩壊まで続いた。 5.まとめ 以上、旧ユーゴ地域の国家・民族・宗教の関係を、2つのユーゴの歴史を通して駆け足で概観してみた。これほどの大きなテーマを数ページで記述すること自体に相当無理があり、また筆者の力量のなさも露呈してしまったが、読者には大まかな流れはつかんでいただけたかと思う。 最後に、大まかにまとめるとすれば、次のようなことが言えるのではないだろうか。 国民国家は、安定した統治を実現するために、その領域の中に住む人々を単一かつ均一な国民に創出しようとする。そこでは、国家の統合のために宗教を従属させ、そのためには政治と宗教を分離しなければいけないという考えが生じる。 第1のユーゴでは、憲法で政教分離を謳いながらもセルビア正教に実質的な国教の地位が与えられたが、このことは教会が国家装置として利用されるということを意味していた。また、1931年の国王独裁以降、国民の宗教・宗派的な違いは国民統合の妨げと見なされ、特定の宗教・宗派を公認しつつもそれぞれの宗教組織への統制が強化された。 第2のユーゴでは、公式には宗教を国家から分離し、世俗的要素による統合が目指されながらも、分権化・自由化によって民族の権利が強調され、共産主義イデオロギーと宗教の矛盾が棚上げにされた結果、宗教が民族の発展に積極的に参与する可能性が与えられた。 *編集部より・本稿の著者のさらに詳しい考察は下記のサイトで読むことができます。http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/kokai/2007/2007prog.html#nittei |
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