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更新日:2007年11月20日(火)
特集

国家と宗教−ユーゴスラヴィアの例(1918-1991)(上)



長島大輔 東京大学博士課程
プロフィール:1973年埼玉県川越市生まれ。最終学歴;東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程修了。専門;ユーゴスラヴィア現代史、ナショナリズムと宗教

0. はじめに

 20世紀の旧ユーゴスラヴィア(以下、旧ユーゴ)地域は4度の大きな戦争を経験した。バルカンから後退するオスマン帝国の領土を巡って争われたバルカン戦争、二度の世界大戦、そして、社会主義ユーゴ解体後に起こった紛争である。これらの戦争は常に多くの犠牲者を生み出し、産業を破壊し、戦後の速やかな復興を困難にした。
 戦争が起こるたびに平和を実現するための努力が試みられるが、それらの試みも次の戦争によって無に帰されてしまう。これらの戦争は、複雑な国際的状況、国内の対立などによって引き起こされてきたが、これら全ての戦争に宗教が少なからぬ影響を、また多くの場合ネガティヴな影響を与えてきたことは否定できない事実である。戦争における宗教の役割は大きな関心を集め、ここ数年研究の蓄積があるが、ここでは主に2つのユーゴ(1918年から1991年)の歴史を振り返りながら、ユーゴにおける国家と宗教の関係を考えるいくつかのヒントを提示してみたい。また国家と宗教の問題を考えることは、必然的にナショナリズム(民族nationのイデオロギー)と宗教について考えることになる。旧ユーゴのナショナリズムが宗教と密接に結びついて形成され、これらの関係が国家と宗教の関係に大きな影響を与えてきたからである。

 ところで、旧ユーゴは、現在、南東ヨーロッパと呼ばれることが多い(スロヴェニア、クロアチアは中欧に含まれることもある)。この呼称は、東西冷戦が終わり、ヨーロッパの統合が進む中で、バルカンというネガティヴなイメージをもった言葉に代わって使われ、旧ユーゴ地域をヨーロッパの正統な一部であると主張するために都合が良い。旧ユーゴから独立した、クロアチアやセルビアでは、自国が「オスマンの脅威からヨーロッパ・キリスト教文明を守ってきた」と、しばしば主張される。実際は、旧ユーゴ地域は、その中心を大シスマ以来の東西教会勢力の境界が走り、さらに時代を下ればキリスト教カトリックのハプスブルク帝国とイスラームのオスマン帝国の狭間にあった。
 そして、交易、人の移動を通して、長きに渡ってこれら2つの地域の橋渡し役を担ってきた。その意味で、双方の影響を受けながら発展してきた独特の文化から、「オリエント的」要素を懸命に排除しようとする最近の動きは、今日の状況にあわせた急ごしらえの「ヨーロッパ文化」を作り出そうとしているようで、滑稽でさえある。今日声高に主張される「文明の対立」は、すくなくとも旧ユーゴ地域においては歴史に根ざした現象ではない。

 王国ユーゴで行われた1931年の人口調査では、正教徒48.70%、カトリック教徒37.45%、ムスリム11.20%であった(表1)。その分布を概観してみよう。スロヴェニア、クロアチア(スラヴォニア、ダルマチアを含む)にカトリック教徒が多く、セルビア、モンテネグロ、マケドニアに正教徒が集中している。スラヴォニア、ヴォイヴォディナはカトリック教徒、正教徒、プロテスタント諸派の混住地域であり、セルビアの南部とマケドニアにはムスリムが大多数のアルバニア人、トルコ人が存在する。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)では三宗教が混住しており、どれも全住民の過半数を超えていない。ボスニアでは、オスマン帝国治下で、土着民によるイスラームへの大量改宗が起こったため、ムスリムが多い。
 1931年の調査では、ボスニアの人口の44%が正教徒、31%がムスリム、24%がカトリック教徒であった。この「イスラーム化」はオスマンの征服によって強制的・短期間に行われたものではなく、自発的かつ漸進的に進んだものと言われている。



表1:宗教・宗派別の人口(単位:千人)


1. 前史
オーストリア・ハンガリー二重君主国とオスマン帝国

 19世紀、旧ユーゴ地域には、オーストリア・ハンガリー二重君主国とオスマン帝国という2つの帝国が存在していた。
 オーストリア・ハンガリーはキリスト教カトリックのハプスブルク家の帝国であったが、オスマン帝国と国境を接するスラヴォニア、ダルマチア、ヴォイヴォディナ、トランシルバニアには多くの正教徒住民がいた。彼らは、17世紀以降、ハプスブルク帝国とオスマン帝国の戦乱からハプスブルク領に逃れ、対オスマン帝国の国境警備兵として軍政国境地帯に定住した人々である。

 1868年クロアチア(クロアチア=スラヴォニア)はアウグスライヒ体制において、ハンガリー王国との間でナゴドバ(アウグスライヒと同意)を結び、ハンガリー王国政府が任命するバン(総督)の監督下で独自の議会の設立と地方行政におけるクロアチア語の公用語化を認められていた。 当時のクロアチアでは、人口の約4分の1は正教徒/セルビア人だった。アドリア海に面するダルマチアは、二重君主国のオーストリア側に属し、イタリア系(イタリア人とイタリア語を話すスラヴ人)からなる二重君主国内での自治を目指すグループ(自治派)と、カトリック教徒/クロアチア人、正教徒/セルビア人からなるクロアチアとの合同を目指すグループ(民族派)に分かれていた。スロヴェニア(シュタイアーマルク、ケルンテン、キュステンラント)では、スロヴェニア語による文芸運動という形で、徐々にスロヴェニア人の政治的統合を目指す民族意識が起こりつつあった。

 このような状況において、19世紀末のクロアチア、スロヴェニアでは聖職者が積極的に政治に関わった。クロアチアでは、ハンガリー支配に反対する政治グループの中で聖職者のグループが現れた。以後、聖職者の政治グループは、クロアチア権利党、クロアチア大衆農民党などの主要政党の掲げる反教権主義に対抗して一定の影響力を持ったが、反教権主義はこの後のクロアチア政治のなかで決定的な潮流となり、それまで教会の影響が強かった農民層に浸透していった。
 これに対し、セルビア人、スロヴェニア人の存在を否定しクロアチア民族主義を前面に掲げるクロアチア権利党とは一線を画し、イリリア主義を唱えたカトリック司教シュトロスマイエルJosip Juraj Strossmayerは、カトリックとセルビア正教との合同が、南スラヴ統一の重要な前提条件になると考えていた。また、19世紀末の二重君主国全体で見られたキリスト教社会運動の影響を受けて、スロヴェニアでもカトリック聖職者の社会運動が起こった。この運動は、後の王制で一定の影響力をもったスロヴェニア人民党に発展するが、スロヴェニア人民党はカトリシズムに加え、社会民主主義的要素も合わせ持つ政治組織だった。

 一方のオスマン帝国支配下のバルカン(ルメリRumeli=オスマン語でローマ人の土地、と呼ばれた)は、住民の圧倒的な多数を正教徒の農民が占めていた。正教徒はイスタンブルの総主教の下に、正教徒ミッレトに属していた。正教徒は、様々な言語と地域文化をもつ集団からなっており、オスマン帝国ではこれらの集団がそれぞれの多様性を保持したまま緩やかに結びつくシステムが機能していた。
 しかし、「西欧の衝撃」を受けてオスマン帝国が行った近代化のための改革によって、正教徒住民のアイデンティティの分化が進んでいった。この過程で、同じ正教徒ミッレトの中から、ギリシア、ブルガリア、セルビアのナショナリズムが生まれていく。しかし、宗教的帰属と言語(=文章語)を核に進められたナショナリズム形成の過程は、ハプスブルク地域に比べて言語的・宗教的に更に複雑なオスマン帝国においては、必ずしも宗教と言語を同じくする集団が一つの民族に発展するという単純なものではなく、しばしばいくつかのオプションの中で民族帰属が意識的に選択されたり、いくつかの核となるナショナリズムの間で揺れ動く集団(例えばブルガリア、ギリシア、セルビアのナショナリズムの狭間にあったマケドニアのスラヴ系正教徒)を生み出したりした。また、この過程は、世俗的指導者層が台頭し聖職者の権威が相対的に低下する世俗化の過程でもあった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

 1878年にオーストリア・ハンガリー二重君主国によって占領され、その共通蔵相の統治下に置かれたボスニアは、正教徒、ムスリム、カトリック教徒が混住しており、隣接するセルビア、クロアチアのナショナリズムの影響を受けて、正教徒はセルビア人として、カトリック教徒はクロアチア人として「覚醒」しつつあった。
 ボスニアの正教徒をセルビア人として自覚させるための運動に、もっとも熱心に取り組んだのは、隣国セルビアのナショナリズムの影響を受けた学校教師たち、宗教と教育の自治運動の指導者たちであった。この運動は後に政治組織「セルビア民族組織」に発展する。

 ボスニアでは、従来のフランシスコ修道会士たちと、オーストリア・ハンガリーの占領後進出したローマの教会組織の聖職者たちとの間で教区をめぐって激しい対立が起こっていた。この対立が彼らの政治姿勢にも反映された結果、フランシスコ修道会士たちは「クロアチア民族連合」に加わり、在俗聖職者たちは「クロアチア・カトリック協会」に参加した。
 前者は、より自由主義的、世俗的で中間層の志向を反映していたが、後者はカトリシズムをクロアチア・ナショナリズムの重要な要素ととらえ、ムスリムをカトリックに改宗させる運動の推進を唱えていた。

 ボスニアのムスリム・コミュニティーはオーストリア・ハンガリー皇帝の任命するウラマー長を頂点とする官製の宗教組織を作り上げ、この枠の中でワクフ、教育の自治を求めていく。セルビア人の場合と同じく、ムスリムたちもこのワクフ・教育自治を求める運動を発展させ、「ムスリム民族機構」を組織するが、この政党はもっぱらムスリム地主の世俗的利害を追及した。ムスリムはすでに、正教徒・セルビア人とカトリック・クロアチア人の狭間でそのどちらでもない自意識を獲得していたと考えられるが、当時のボスニア・ムスリムが世俗的民族として自覚するには政治的に未成熟であった。

独立国家−セルビアとモンテネグロ

 ナショナリズム運動において宗教はナショナリズムを発展させるためのインスティトゥーションnational institutionとして、組織化されていった。1878年に独立を果たしたセルビアは、1879年にセルビア正教会の自治を復活させたが、セルビア国家はセルビア正教会を国家の統制下に置こうとして、しばしば教会組織と対立した。
 しかし、セルビア正教の国家装置化が進められ、1903年にはセルビアの国教とされた。また、19世紀半ばに神政政治に終止符が打たれたモンテネグロ王国においても正教が国教とされた。
 セルビアでは1844年の「ナチェルターニェ(指針)」によって、中世セルビア王国の最大版図を領土とする南スラヴ国家の建設が目指されたが、セルビア正教会はこれによって中世セルビアの「聖サヴァの教会」の復活を夢見るようになる。このセルビア正教徒の統一という夢は、第1のユーゴの成立によって実現されることになる。

 以上が、第1のユーゴ成立前の旧ユーゴ地域の状況である。
 2つのユーゴは、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の誕生に始まり、社会主義ユーゴスラヴィアの崩壊・旧ユーゴ内戦によって終焉を迎えた。政治体制は立憲君主制(1918−)から国王独裁(1929−)、第二次大戦中の枢軸国による占領と傀儡政権による統治(1941−)、第二次大戦後の社会主義体制(1945−1991)へと、変化していく。

2. 第1のユーゴ

 宗教が徐々に重要性を失っていく近代において、宗教はつねに世俗権力としての国民国家nation state、民族nationに従属していく。宗教が近代国民国家の統治機能を規定することは、一般的にない。つまり、宗教は、国家、民族を強化するために動員されるツールの一つであって、宗教的価値のために国家、民族があるのではない。
 また、近代国家は、宗教を国家の正統性強化に役立つものとして利用するか、少なくとも国家の側からコントロールできるようにしておきたいと考える。
 第1のユーゴの場合は、セルビア正教には絶対的な優位が与えられ実質的に国教の役割を果たし、カトリック、イスラームは、活動を制限されつつもかなり広範囲な自由を与えられていた。セルビア正教の高位聖職者、神学校教師、軍の聖職者、教会裁判所の聖職者、所員は全て国家官吏であり、国家によって叙任され、国家から俸給を受けた。その他のセルビア正教の聖職者に対しても、国家が信徒から徴収する教会税から補助金が分配された。国家の祝日はセルビア正教の歴に従い、王国軍の兵士の宣誓式には聖職者が出席した。

 第一次世界大戦とオーストリア・ハンガリー二重君主国の崩壊によって誕生したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)は、様々な政治的、社会的、歴史的背景をもった地域の寄せ集めであったが、その住民は言語的にも(セルビア・クロアチア語74.36%、スロヴェニア語8.51%、ついでドイツ語4.22%、ハンガリー語3.90%、アルバニア語3.67%など)宗教的にも(46.67%正教徒、39.29%カトリック教徒、11.22%ムスリムなど)複雑で、その上いくつかの地域では複雑に入り組んで混住していた。
 しかしながら、公式にはセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人は民族的には単一な南スラヴ人とされ、後の社会主義ユーゴで構成民族とされるマケドニア人、モンテネグロ人、ムスリム人は民族としての存在を認められていなかった。

 正教徒はエスニック的にさまざまな要素を抱えてはいたが、王国内ではセルビア正教総主教座の下で統合が図られた。すなわち旧セルビア王国から5、旧モンテネグロ王国から3、クロアチア=スラヴォニアから7、ブコヴィナ=ダルマチアから2、ボスニア・ヘルツェゴヴィナから4、南セルビアとマケドニアから7の管区がベオグラードの総主教座の下に統一されたのである(1920年)。セルビア正教会はこの統合を中世の「聖サヴァの教会」の復活と見なしたが、このことは王国を大セルビアの実現と見るものにとって、国王の統治を正当化する最も重要な要素となった。
 これ以来、セルビア人の統一を守ることこそがセルビア正教会の最大の使命とされた。セルビア正教のシンボルでは、十字架の周りにキリル文字のC(ラテン文字のS)のような形が4つ描かれているが、これらのCは、しばしば「統一のみがセルビア人を救うSomo sloga spasava srba」の頭文字であるとまことしやかに説明される。

 王国ユーゴ時代、ボスニア・ムスリムは、地主、知識人、聖職者などからなる政治組織「ユーゴスラヴィア・ムスリム組織JMO」を結成する。JMOの政治目標は土地改革に対してムスリム地主の利益を最大限に守ること、セルビア、クロアチアの覇権主義的ナショナリズムに対抗するために「ユーゴスラヴィア統一主義」を支持すること、信仰の自由を守ること、であった。ユーゴの統一を掲げながらも、この信仰の自由の追求は、歴史的にボスニア・ムスリムのエスニックな権利の要求と深く結びついていたため、他の地域(例えばアルバニア、マケドニア)のムスリムとの差異を強調することになった。

 例えば、当初、ムスリムのコミュニティーはスロヴェニア、クロアチア、ボスニアのムスリムがサライェヴォのウラマー長のもとに、セルビア、モンテネグロのムスリムはベオグラードのムフティのもとに置かれていた。その後、国王独裁体制下の1930年、法律により全国に統一したイスラーム・コミュニティIslamska verska zajednicaが作られ、サライェヴォのウラマー長をベオグラードに移すこと、バニャルカ、トゥズラ、サライェヴォ、モスタル、プリェヴリャ、ノヴィパザル、プリズレン、ビトリュ、スコピエの9箇所にムフティ庁を置くことが決められた。

 しかし、1936年ユーゴスラヴィア・ムスリム組織の党首スパホMehmed Spahoは、入閣と政権への協力の見返りとして、1930年の法律を無効にし、統一されたイスラーム・コミュニティは維持しつつも各地域のコミュニティーに大幅な自治を認める新法の制定を要求して受け容れられた。こうしてウラマー長はサライェヴォに戻され、ウラマー長には新たにスパホの実弟であるフェヒム・スパホFehim Spahoが就いた。この例からわかるように、ユーゴレベルでのムスリム・コミュニティの集権的統合の試みにははっきりと拒否する姿勢が示されたのである。

 王国政府は、セルビア正教、カトリック、プロテスタント(福音派)、イスラーム、ユダヤ教のみを公認し、これら以外は非公認あるいは禁止(ナザレ派、アドヴェンテスト派)した。1921年のヴィドヴダン憲法は、これらの公認宗教に信仰の自由を保障し、これらの宗教の完全な平等を謳っていたが、セルビア正教は事実上の国教として扱われていた。宗教を政治目的に利用することは禁止されていたが、憲法には政教分離を具体的に規定する条文はなかった。1929年の国王独裁開始以後、これらの宗教組織に対する統制が強められると、それぞれの宗教の法的地位を規定する法律が作られ、これに続いて各宗教組織内に内規が作られた。
 
 唯一の例外はカトリック教会であった。カトリック教会はその組織的中心がバチカンにあるため、カトリック教会の法的地位に関する合意は王国政府とユーゴのカトリック教会の間ではなく、王国政府とバチカンの間のコンコルダート(協約)によって結ばれる必要があったのである。王国成立後まもなくコンコルダート締結に向けた準備が始められたが、数度の中断を経て1933年にようやく再開され、1935年にローマで調印された。

コンコルダートの主な内容は、

・カトリック教会は王国における全ての公認宗教と完全に平等な地位を保障される。
・教皇庁が王国内の聖職者を任命する際には王国の利益を最大限に尊重する。
・司教着任の際には王に対する忠誠を誓う。
・政府はカトリック教会に対し他の宗教に与えられる補助金と同程度の補助金を与える。
・農地改革によって失われた教会財産に対する補償を行う。
・公教育における宗教教育を義務化し教会の監督下に置く。
・特定の地域のカトリック教会においては教会スラヴ語の使用を容認する。

というものであった。セルビア正教会は、これによって事実上の国教としての優位が揺らぐことを恐れた。またカトリック教会における教会スラヴ語(セルビア正教会の典礼語)の使用は、セルビア正教徒のカトリックへの統合を目論むバチカンの策略であると見なされた。

 結局コンコルダートは、当時のストヤディノヴィチ政権に反対する野党勢力が、反コンコルダートキャンペーンに加わったため、大規模な反対運動が繰り広げられた結果、批准されるに至らなかった。この経緯は、セルビア正教会の「バチカン嫌い」を物語るエピソードとしてよく知られている。1937年7月19日に下院でコンコルダート批准のための法案の審議が行われると、同日病床に臥す総主教ヴァルナヴァに対する祈りの行進が、反ストヤディノヴィチ派のデモ隊と警官隊との衝突に合流し、反コンコルダートを唱えるデモに発展した。ここで、シャバツ主教シメオンが負傷した(「血の行進」事件と呼ばれる)。23日に下院において法案が可決されると、セルビア正教会は賛成票を投じた正教徒議員を破門にした。総主教は病状を悪化させ、同夜死去した。政府、反政府ストヤディノヴィチ派の対立は頂点に達したが、両者に妥協が成立し、政府は法案を上院に送ることを断念し、同案を無期限延期とした。反教権主義を掲げる当時のクロアチア農民党は、これに対し静観を貫いていた。

 では、王国ユーゴはカトリック教徒にとって「暗黒時代」だったのだろうか。たしかに、セルビア正教が事実上の国教とされていたのに対し、カトリック教会はあらゆる公的領域から締め出されていた。しかし、王国時代にも教会を基盤としたさまざまな社会運動が起こっていたところから、一概にカトリック教会が抑圧されていたとは言えないだろう。
 例えば、この時代のカトリック社会運動のひとつにカトリック・アクションがある。カトリック・アクションは、教育、特に幼少年に対する宗教教育を中心に、教会活動の再興を目指していた。
 スロヴェニアでは、当初は既存のカトリック社会運動を束ねる緩やかな連合であったが、1936年には憲章を採択して、学生、労働者、農民、教師の4つの下部組織を抱える運動に発展した。ボスニアでは、すでに1926年にサライェヴォ大司教が、ボスニアにおけるカトリック・アクションの推進を提唱した。国王独裁によって一時途絶えた後、1935年には、ザグレブの司教会議もカトリック・アクションの実践を宣言した。




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