更新日:2007年10月16日(火)
特集
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プロフィール:福岡県出身。カナダ、アルバータ大学大学院歴史古典学部修了(Ph.D.)。専門・ウクライナ近現代史、旧ソ連・ウクライナの女性史・ジェンダー研究。 はじめに 2004年末のウクライナ「オレンジ革命」において、大統領選の投票結果でウクライナ東部と西部で大きな地域格差が表れ、それは「東西新冷戦」「東西ウクライナ分裂の危機」などとメディアでも騒がれた。簡単に言うと、西ウクライナ地方はソ連時代の経験が少なく、民族主義が強くて親欧米、これに対して東ウクライナはロシア・ソヴィエト時代の長い歴史があり親ロシア的だというものである。ウクライナは、1991年に独立するまで一度も自民族による独立国家をもったことがなく、その国境線も20世紀の後半にようやく最終画定したことから、住民のアイデンティティ形成は時代と地域に応じて多様なプロセスを経てきた。 古くは東方正教会文化圏と西方ローマ・カトリック文化圏を分かつ「東西」であり、1990年代は「中欧」概念の復活に乗じてハプスブルグの流れを汲むヨーロッパの「一員」へのアイデンティティに注目が集まり、EU・NATOの東方拡大や、オレンジ革命を経た現在はEU加盟で「ヨーロッパの一員」を希求するウクライナ・アイデンティティと、「ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる」アイデンティティとして議論されることが増えた。 本稿はウクライナ・アイデンティティ理解の出発点である「東西ウクライナ」がどのように形成され変遷してきたのか、その歴史的発展の相違、それぞれのアイデンティティの基となった歴史の記憶が現在のウクライナでどのように受け入れられ、どのような問題があるのかについて考えてみたい。 1、19世紀の東西ウクライナ・アイデンティティ 19世紀のウクライナはロシア帝国かハプスブルグ帝国の支配下に置かれていた。東西帝国下のウクライナ人は、それぞれ「小ロシア人」「ルテニア人」と呼ばれていたが、19世紀後半、ナショナリズムの時代を迎えるにつれて、一つの「ウクライナ人」という近代的な民族アイデンティティを形成していく。とはいえ2つの帝国における歴史的経験はかなり異なり、それはウクライナ・アイデンティティの形成にも対照的な影響を及ぼした。そして、今日にいたるまでウクライナの多様性、東西地域格差の根源として議論されているのである。 18世紀末のポーランド分割によりハプスブルグ帝国領となった西ウクライナ・ガリツィア地方では、ウクライナ人のほとんどはポーランド地主貴族の下で働く貧しい農民で、両者の確執は大きな社会的・民族的対立であり続けた。しかしながら、ハプスブルグ帝国の「ルテニア人」は、ロシア帝国下の「小ロシア人」が被ったほどの民族運動に対する壊滅的な打撃や徹底的な弾圧は経験しなかった。マリア・テレジアやヨーゼフ2世という啓蒙専制君主のリベラルな議会制度や教育改革の恩恵を受けて、ウクライナ民族運動は文化的にも政治的にも大きな発展を遂げることができた。 特にウクライナ人の民族的発展に重要な役割を担ったのがギリシャ・カトリック教会(ユニエイト、ウクライナ・カトリック教会)であった。ローマ・カトリック教会との平等を図ったオーストリア政府によってギリシャ・カトリックは正式に認められ、ウィーンにはウクライナ語の神学校も設立された。妻帯を許されたギリシャ・カトリックの聖職者は、農民主体のウクライナ人のなかでほぼ唯一の教養階層として、信仰のみならずウクライナの言語と文化を次世代に伝え、継承していくという民族的役割を20世紀後半まで果たしていくことになる。 ヨーロッパを革命の嵐に巻き込んだ1848年革命(フランス2月革命、ドイツ・オーストリア3月革命)の際に設立された「最高ルテニア評議会」は、ウクライナ人の民族的権利を求め、ポーランド人との対決姿勢を鮮明にした。そして1890年に設立された「ウクライナ急進党」は、「ルテニア」ではなく「ウクライナ」と自称することによって、東西に分かれて暮らすウクライナ人の統一を初めて掲げたのであった。 20世紀初めまでには、地方自治、普通選挙など一連の改革により、ウクライナ人はまがりなりにも一定の民族的権利を獲得した。しかしながら、このころまでにはポーランド人対ウクライナ人の社会的・民族的対立はますます深刻化していくのである。 ハプスブルグ帝国下のウクライナ・アイデンティティが、ポーランドという他者との強い対抗関係のなかで成長していったのに対して、ロシア帝国下のウクライナ・アイデンティティは、ロシアとの強い結びつきを保持したまま発展する。19世紀前半のロシア政府はウクライナ人の運動よりも、ロシア帝国内のポーランド人の政治的影響力とその反ロシア的革命運動を警戒していた。したがってウクライナ人がスラブ民族の文化やフォークロア収集に興じることは、ポーランド文化の影響を排除し、「ロシア化」政策に貢献するだろうと、さほど危険視していなかったのである。しかしウクライナの民族運動が高まると、これに脅威をいだき、さまざまな制約を与えはじめた。ウクライナ語出版の禁止令が発布され、ウクライナ語による活動や出版、教育は事実上1917年のロシア革命まで不可能となった。 ロシア帝国で活動を続けられなくなったウクライナの知識人は、自由なハプスブルグ帝国の西ウクライナに移動していった。こうした東西知識人の交流によって、西と東に分断されていた「ルテニア人」と「小ロシア人」は、言語や慣習を同じくする「ウクライナ人」という近代的民族として形成されていくことになる。とはいえ、東ウクライナの文化人はウクライナ・アイデンティを育みながらも、ロシアとの強い結びつきを維持しつづけた。ロシア帝国のウクライナ知識人たちはポーランド・アイデンティティへの同化姿勢は一切みせなかったが、ロシアへの断固たる決別姿勢もみせず、スラブ全体、ロシア全体といった枠組みにおいてウクライナの特質を強調するという議論展開をおこなっていた。 ウクライナ・アイデンティの形成にみられた東西の違いは、1917―1920年のウクライナ革命の成り行きにも影響を及ぼした。ロシア革命が勃発すると、東西の帝国下のウクライナ人は独自の共和国をつくり、両国は東西ウクライナの合同を目指して活動する。東の共和国は新しい民主ロシアとの連邦制のもとで自治を実現するという方針から出発し、ロシアからの完全分離とウクライナ独立には否定的で、ロシアとの連邦関係の樹立に最後まで希望を託していた。 一方西の共和国は、ハプスブルグ帝国が崩壊すると西ウクライナ人民共和国を宣言するが、ポーランド人と連邦制を築くという発想はない。逆にウクライナ人の独立を認めないポーランド軍との激しい戦争が始まる。西ウクライナ人民共和国はポーランド軍に敗北し、戦間期を通じてポーランドの統治下におかれる。東の共和国もボリシェヴィキに敗北し、独立闘争は挫折した。東西ウクライナは再び、ポーランド、ソ連という2つの国にわかれてしまう。異なる体制、異なる民族政策のもとで東西のウクライナ人のアイデンティティは再び対照的な歴史を歩むのであった。 2、「中欧」の復活とウクライナ 1980年代に東西冷戦下で広がった「中欧」概念は、社会主義崩壊後の1990年代、再び注目を集めることになった。「中欧概念」を推進する国は自国を「東西ヨーロッパの架け橋」と主張するが、ウクライナも独立以来、自らを「ヨーロッパの一員」と強調し、それを新国家のアイデンティティのひとつとしてきた。 ウクライナが「ヨーロッパの一員」であることをもっとも感じさせる場所がかつてのガリツィア=西ウクライナである。1990年代以降、西ウクライナでも自らの「ヨーロッパ性」、「中欧性」を主張する試みが続いてきた。ソ連崩壊時に西ウクライナ地方の独自性と利益を主張した「ガリツィア協会」に始まり、リヴィウの学術雑誌や地元の新聞、ハプスブルグ帝国ヨーゼフ1世の生誕170周年記念行事など、主に学術文化において、「中欧性」が強調されてきた。こうした動きはある意味「古きよき時代」への懐古趣味であり、将来政治的に影響力が増すとは思えない。にもかかわらずこうした風潮が出てくることの背景には、今のウクライナ社会に対する不信や失望があるともいえるだろう。 ところで1990年代に復活した中欧概念は、ロシア・バルカン諸国との差異化という優越意識に結びつき、中欧各国はEUやNATO加盟に血道をあげることになった。そのEUも多文化を標榜しながら、実情はキリスト教文化を根強く残し、移民などに対して不寛容であることが既に指摘されてきている。 西ウクライナの中央ヨーロッパ・アイデンティティも、マイナスの側面に目を閉ざしている「幻想」の部分が多い。ハプスブルグ時代の西ウクライナ(ガリツィア)は、ハプスブルグ帝国全体からみると、もっとも産業化の遅れた最貧の農業地帯で、民族文化の発展にも恵まれていたとは決していえない。多文化が共生していたというのは幻想で、ユダヤ人、ウクライナ人、ポーランド人などが不寛容なナショナル・アイデンティティをはぐくみ、しのぎを削っていたのもこの地域である。しかしそうした側面よりも、民主主義、リベラリズム、文化の発展、多民族調和社会といったプラスの部分が強調されてはいないだろうか。内部に排他性を潜めるEUに加盟を果たした中欧諸国も、その「中欧概念」には排他性が潜んでいる。この中欧諸国に遅れまいと、中欧概念を主張する西ウクライナのアイデンティティも、東ウクライナやソ連・ロシアとの違いを強調することで自らの排他性と不寛容を強めているとはいえないだろうか。 いずれにしても、古きよきハプスブルグを懐かしむ過去への回帰だけでは、ウクライナ東西分裂説などには発展しないだろう。現代ウクライナを東西に分けるより深刻な歴史問題は、第2次世界大戦の記憶をめぐる東西の違いなのである。 |
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