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更新日:2007年10月16日(火)
特集

異国の中の祖国―ブルゲンラント・クロアチア人の過去、現在、未来(上)



三谷惠子 北海道大学スラブ研究センター客員研究員

プロフィール:東京都出身。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学助手、筑波大学助教授を経て、現在京都大学教授。専門・言語学、スラヴ言語文化論。2007年度スラブ研究センター客員研究員
(本稿は寄稿いただいた文章を2分の1程度にした抄録です。(*)部分が削除した部分で、脚注なども省いていますことをお断りいたします。)


はじめに

 音楽の都として日本人にも馴染みの深いオーストリアの首都ウィーンから南東へ60キロほど離れた所に、アイゼンシュタットという町がある。
 18世紀の音楽家ハイドンが、ハンガリー屈指の大貴族エステルハージ家に仕えて約30年を過ごした地で、ハイドンゆかりの町として観光客に知られている。観光案内書に紹介されていないのは、アイゼンシュタットを州都とするブルゲンラント州の数奇な歴史、そしてその歴史の陰でひっそりと400年以上の間この地に生きて来た少数民族―ブルゲンラント・クロアチア人の存在である。
 
 ここでは、東欧という地域の特性を、このブルゲンラント・クロアチア人の過去と現在をとおしてみながら、あわせて民族とは何か、民族のアイデンティティはどのようにして保たれるのか、といった問題について考えていきたい。

1. ブルゲンラント州とブルゲンラント・クロアチア人について

 (*)ブルゲンラントは、オーストリア最東端の州で、州都はアイゼンシュタット(クロアチア名はジェレズノ「鉄の町」)、現在でこそオーストリア連邦を構成する州だが、もともとハンガリー王国の領域にあり、第一次大戦後に、ハンガリーからオーストリアに移譲された地域である。(*)

ブルゲンラント州とアイゼンシュタット
鉄条網の除去式典(1989)


 このブルゲンラント州を中心に、ウィーンの東側、また国境を隔てたハンガリー西部、スロヴァキア西部、さらにはチェコ南部の一帯には、かつて、オスマン帝国のバルカン半島侵攻から逃れてこの辺りに移住した数多くのクロアチア人の村があった。17世紀から現代に至る歴史の中で、それらのクロアチア人社会の大部分は消滅したが、それでも、今日までクロアチア人としてのアイデンティティを保ち、クロアチア語を用いている人々がわずかながらいる。(*)こうした人々を総称して一般に「ブルゲンラント・クロアチア人」という。

 ブルゲンラント・クロアチア人が用いる言語もまた、クロアチア本国の言語と区別する意味で「ブルゲンラント・クロアチア語」(クロアチア語では「グラディシチェのクロアチア語」)とよばれ、現在、ブルゲンラント州の「クロアチア人地区」に指定された30の自治体およびウィーンとグラーツの一部の区で、ドイツ語とならぶ公用語とされている。(*)ブルゲンラント・クロアチア方言の分布は、かれらがどの地方からやってきたかという、移住の軌跡をたどるための“生きた資料”としても貴重である。(*)

2.過去―移住の始まりから現代まで

2−1 19世紀まで

 14世紀後半からバルカン半島へ進出をはじめたオスマン帝国は、16世紀のスレイマン1世(位1520−1566)の時代に最盛期を迎えた。そしてその統治のもとバルカン半島ほぼ全土を支配下におき、ヨーロッパへの入り口となるハプスブルク領のすぐ南にまで迫った。歴史上有名な1526年のモハーチの戦い、1529年のウィーン包囲にみられるオスマン帝国の伸張は、中・東欧で勢力を拡張する途上にあったオーストリア・ハプスブルク家にとってのあらたな脅威となり、一方、両勢力に挟まれた地理的空間に住むバルカンの小民族にとっては、生存そのものの危機となった。(*)
                
 悪魔の襲来とも思われたオスマン軍との戦場となったクロアチア、スラヴォニア各地では、16世紀にはいると、戦闘そのものによる被害のほか、土地の荒廃による食糧難、内陸からダルマチアへ通じる交通路の遮断から生じる物資不足や物価の高騰、飢饉などによって、社会のあらゆる階級の人々が生活に困難を極めるようになった。そうした状況に耐えられなくなった人々が、当初はボスニアやダルマチアから、そしてオスマン軍との戦闘が北上するにつれてクロアチアの北部、沿岸部、また西スラヴォニアから、より安全なすみかを求めて国外へと移住していったのである。その総計はほぼ15万人と推定されている。(*)
              
 さまざまな資料に基づく歴史研究によれば、17世紀初頭の時点でクロアチア人の村は、上記(今日の地理区分でオーストリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアにまたがる地帯=編集部注)の地域に合計180ほどあったとされる。しかし今日まで残ったのは、ブルゲンラント州を中心とする50ほどの村で、その他の土地、とくにウィーンの東側からスロヴァキアのブラティスラヴァ周辺一帯にかけて点在した60余りの村は、歴史の中で完全に消滅した。消滅といっても、文字通り村がなくなったわけではない。他民族との共住の中で同化が進み、住民たちがクロアチア語を用いることをやめ、それとともにクロアチア人であるという意識を、すくなくとも社会生活上失っていったのである。(*)
                 
2.2 現代史の中で

 第一次世界大戦は、オーストリア・ハプスブルク=ハンガリー帝国の解体、そしてチェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアといった新しい民族国家の誕生という結果を生んだが、ブルゲンラント・クロアチア人にとってそれは、あらたにオーストリア、ハンガリー、そしてチェコスロヴァキアという別々の国にかれらの社会が分断されることを意味した。そして多くのブルゲンラント・クロアチア人がオーストリア国民として再出発することになった。
                
 ヨーロッパに多くの犠牲をもたらした第二次大戦、共産主義の時代を経て、1985年のソ連共産党ゴルバチョフ書記長の登場を契機に、東欧各国では民主化・自由化の動きが進んだ。1989年には、それまで「西」と「東」を隔てるためにオーストリアとハンガリーの間の国境に設けられていた鉄条網が撤去され、両国間の国境が事実上開放された。
 
 この出来事は、東欧そして欧州全体のあらたな時代の幕開けの象徴として世界の注目を浴びたが、この鉄条網除去の式典が行われたオーストリア側の国境の村クリンゲンバッハは,クロアチア名をクリンプフという、現在もクロアチア人が住民の70%以上を占める、歴史的なクロアチア人の居住区である。
 民主化を求めて人々が立ち上がった1956年のハンガリー革命のさいにはハンガリーからの亡命者を真っ先に受け入れたかれらは、その30年後には、再び東西の扉が開かれる最初の目撃者となったのだった。

(編集部注:右の写真は「ハンガリーとオーストリア外相による鉄条網の除去式典」1989年。Burgenland 1921−2001 (CD−ROM)より転載)





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