HOME > 書評 〜新刊のご紹介〜 > 『野の鳥は野に 評伝・中西悟堂』(小林照幸著:新潮選書)
更新日:2007年10月10日(水)
書評 〜新刊のご紹介〜
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「日本野鳥の会」創設者 著者、小林照幸氏が約2年半追いかけた中西悟堂(1895−1884)の評伝は、脱稿後「ここまで偉大な人物だったとは」というものであったことをあとがきに記されている。中西悟堂が没した時には16歳だった著者が、本書の仕事を通して先人を追った。自然環境のことがクローズアップされる現代にこそ、この評伝の意味は大きくて深い。 明治28年(1895)年、石川県金沢市に生まれた中西悟堂とは、どのような人物で、どのような足跡を残していった人物なのか。生まれた前年に日清戦争があった。その講和会議には、伊藤首相、陸奥外相が全権委員になっていた。内村鑑三の「How I Became A Christian」が出版されている。樋口一葉の「たけくらべ」「にごりえ」なども発表されている時代である。 江戸から明治になって約30年が経った金沢で1歳の悟堂は両親を失っている。父親は日清戦争の戦傷が原因で死亡。母親は夫の死によるショックで行方不明。伯父の養子になるが、10歳で秩父の寺に預けられる。ここで150日間の滝行、座行、断食行を経験。その後、その伯父と共に東京府北多摩郡にある祇園寺に移り住み、15歳で得度して悟堂と名を改める。17歳で四国各地の寺で修行。20歳で短歌集を出し、26歳の時(住職を務めながら)に出した処女詩集が、白秋や犀星から絶賛される。30歳で僧籍を離れて、北多摩郡で木食採食生活(米食と火食を断つ)を約3年半行う。 この体験から「野鳥開眼」とも言える生活に入る。生活の転換の理由を著者は「木食生活がいくら幸福に満ちたものであっても、人の役に立つものではなく単に現実社会からの逃避、と気づいたからである」(39頁)と説明する。東京市外井荻町風致地区内(現在の杉並区善福寺)で鳥の放し飼いを始めた悟堂は、籠ではなく禽舎(きんしゃ)を設けて、書斎とも鳥が行き来できるようにして生態を観察した、というのだから、光景的には畑正憲こと「ムツゴロウ」さんのようなものか。 このあたりから『日本野鳥の会』のほのかな兆しを感じる読者もいるだろう。「しかしながら‥‥」と筆者はやや意外な事実を説き起こす。『日本野鳥の会』の誕生の直接のきっかけは、鳥類研究の内田清之助の進言によるものだった。悟堂が38歳の時。他にも悟堂の友人(竹友東京女子大教授)が民俗学者の柳田国男に悟堂の話をしたり、柳田から作家の泉鏡花へ、竹友から戸川秋骨(慶応大教授)、戸川から歌人の与謝野晶子へ、さらに公爵の鷹司、言語学者の新村出、朝日新聞の杉村楚人冠、公爵の山階(山階鳥類研究所)など広範な理解者を得ていく様は大きな波紋の広がりに見える。 そうして『日本野鳥の会』と機関誌『野鳥』のスタートが、悟堂によって決心された。 会は「愛鳥」の考えを「籠」から「野での鑑賞」へ変えることと、「鳥類の科学と芸術、文化の融合」をめざすことを提唱した。1934年のことだ。 組織の成長とその痛み 会は創設され、同年6月3日に富士山の裾野で「探鳥会」と呼ばれるようになった「野鳥観察会」が行われた。10年後には、1800名の会員数になった。この間、戦争もあり、1947年に会は活動を再開する。「県鳥」のアイデアは、昭和37年度の『日本野鳥の会』全国大会で悟堂が提唱したものである。 終戦直後の時代を思わせる会の活動がある。それは、スズメやツグミがおやつ代わりになっていた時代らしい出来事だ。その時代には江戸時代に発明されたカスミ網漁があったのだ。戦前には年間1千万羽もの鳥が捕獲されていたらしいが、こうした伝統的な漁も占領軍の指導や、悟堂たちの「愛鳥」精神に基づく運動によって禁止されていく。それが実現する過程は、現代の環境保護運動にも見られる困難なものだった。 ツグミを獲ることで生活する者たちもいるし、それらをバックにする代議士もいる。そこでは、「害鳥」「益鳥」の区別をめぐる『言い争い』もあり、現代と同じ利害調整に付きまとう人間社会の風景だ。岐阜県では、カスミ網漁を守ろうとした「焼鳥代議士」「焼鳥知事」の異名をつけられた政治家も出た。「農林省で使うことを禁じているカスミ網を、通産省があくまでも禁じようとしない不条理」(100頁)と悟堂は昭和46年に書いている。 「不条理」は次の考えにも出る。「ことに困ったのは“開発病”の流行です。この伝染性の文明病は、一度これにかかったら、開発以外に人間の発展はない、と思い込ませ、それによって冒された頭はなかなか回復しません」(昭和42年元旦付け南日本新聞)という指摘だ。さらに、日本初の「自然を返せ」デモが、昭和45年に行われるが、悟堂74歳の時でデモの先頭に立つ。当時の都知事は美濃部亮吉。 紅白歌合戦で勝敗を決める際の会場で示される観衆のボードやウチワをカウントする「日本野鳥の会」の会員の姿は、昭和54年から11年間続いた見慣れた光景になったが、悟堂に判断を仰ぐこともなく始まっていたそうだ。組織が大きくなっていたとも言えるし、他の問題もあって、昭和55年に同会の会長職を辞任している。 同会の活動と北海道の縁は、昭和56年に野鳥のサンクチュアリとして北海道苫小牧市(ウトナイ湖)に特筆されるが、実現までの「日本野鳥の会」の取り組みは、道民としてもっと知っておきたいところである。悟堂は文化功労者に贈られる年金をここの「ネイチャーセンター」建設に寄付している。経団連も協力したが、全国の同会の支部からに寄せられた小学生の1円玉募金もあった。しかし、昭和56年の記念式典に悟堂は参加することはなかった。こうした運動体、組織体の一つの現実でもあり、個人、中でも創始者と組織の成長の善き相互作用は難しいものだ。 同書から「人間」と「組織」の観察をすることは、世の中のシステムを学ぶことにもなるが、「評伝」は、伝記のようにも読めるが、もう一歩深い人間理解、社会理解になることを教えられる好著である。 |
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