更新日:2007年10月16日(火)
特集
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巡礼者の宿泊問題 現在まで尾を引いているもう一つの問題は、巡礼者の宿泊をめぐる問題である。巡礼者ははじめ、市議会から指定された大学の寮や、閉鎖中の工場などに寝泊まりしていたが、衛生状態など環境が劣悪であることから、個々の巡礼が聖地周辺の住民と個別に交渉し宿泊するようになった。 こうして巡礼地周辺の住民は多大な経済的恩恵を受けるようになったが、観光資源としての巡礼の管理を通して安定した税収入を得ることで地方経済の活性化を目指す行政側には大きな悩みの種となった。 行政はこうした無秩序な宿泊状況に対する対抗策として、はじめ、巡礼者を宿泊させた住民から収入税の徴収を試みるが、住民が虚偽の申告をすることから十分な税収を得ることができなかった。 その後、地方から中央への度重なる要請に基づき、ウクライナ政府は、官選の旅行代理店を通して住民と巡礼者の宿泊契約の仲介をすることで事態の改善に乗り出したが、ソ連時代から巡礼者の便宜を図ってきた国外のハシディーム専門旅行会社の抵抗に遭い、これも失敗した。 こうしたさまざまな問題が重なり、1998年には外交問題にも発展しかねない深刻な危機が訪れた。ウクライナ政府は、世界会議側が、巡礼者の受け入れに対して行政側が提供する公共サービス料の未払いを理由に、ヴィザ発給の停止とチャーター便のキャンセルという手段に訴えようとした。 しかしこのときも、ユダヤ人側によるデモ計画やイスラエル政府を経由した活発なロビー活動が効力を発し、国際的イメージの低下に対する懸念とイスラエル・ウクライナ二国間関係を優先したウクライナ政府は、またしても巡礼者側の圧力行使に屈せざるをえなかった。 ウクライナ民族主義者による反巡礼デモ 政府による巡礼の組織に対する介入がこととごく失敗し、巡礼地周辺の住民を別とすれば巡礼によって地方経済に目に見える形で還元されることがない状態が続く中、1990年代末には、これまでに燻っていたハシディームと政府の対応に対する批判の声が相次いで噴出した。 1997年、約100人の活動家がウマニで街頭デモを行い、ハシディームが町を自分たちの住居に変えていることやウクライナ政府が巡礼に便宜を図っていること、さらには巡礼期間中にウクライナ警察がハシディームの警備に当たっていることなどに抗議して、ユダヤ人巡礼者を入国させないように訴えた。 また、ウマニでのシナゴーグ建設の非合法性や、巡礼がウクライナの安全保障を脅かしていることなどに対する疑義と批判が、ウクライナの議会でも取り沙汰されるなど、巡礼が政治問題化することも少なくなかった。 1999年には、次のような「事件」も起きている。UNA−UNSO(ウクライナ民族会議−ウクライナ人民自己防衛)という団体が、ユダヤ暦新年の到来時期を見計らい、「1768年の民族解放蜂起」と題する全国学術大会と同蜂起の記念碑の建設予定地までの行進をウマンで開催する計画を立てた。無用な混乱を危惧した市議会は計画の中止を求めたが、同団体はそれに応じず、問題は裁判に持ち込まれた。ウマニ地方裁判所の判決は、この時期にウマンで大会を開くことと、団員の市内立ち入りを禁じ、さらに内務省は、大会予定日における同団体のウマニ入りを未然に防止する措置を全国規模で展開し、巡礼期間中の大会開催は直前になって阻止された。現在、記念碑の建設予定地には、資金難等の理由から、礎石のみが建ったままの状態が続いているが、市議会の外務担当官は、この種の計画は可能だとしても実行すべきではないとの見解を支持している。 住民と巡礼者の関係 聖地周辺の住民は巡礼者の宿泊を通して経済的恩恵を被っているため、巡礼者の訪問を概ね歓迎しているが、一方で、巡礼経済に極度に依存する状態が生み出されるとともに、巡礼者との軋轢も絶えない。こうした感情的軋轢の原因の一つとして、一部の巡礼者にときとして見受けられる住民に対する配慮の欠如や侮蔑的な態度を指摘できるが、巡礼によって生じた土地をめぐる地域住民と巡礼者の疎外関係が、緊張を生みやすい土壌となっていることは間違いない。 現在、巡礼地周辺では、塀で囲まれたナフマン廟のほか、ヨーロッパ最大という大シナゴーグ、イスラエル資本のホテル「シオンの門」、巡礼者用の高層住宅などの開発が次々と進んでいる。しかし、巡礼者側にも行政側にも、住民に対する配慮などは一切見られない。また、巡礼期間中には、巡礼者に対する宗教的配慮が最優先され、住民はさまざまな制限を課せられる。 たとえば、2003年には、巡礼地付近に自然発生的に出来上がった縁日で、女性が品物を販売することを禁止する措置までが、地元行政との連携で行われた。自分たちの生活圏で行動を規制されることに住民は反発し、地元紙もこれを大きく取り上げた。 しかし、住民はたんに行政や巡礼者の言いなりになっているばかりではない。たとえば、住民は巡礼によって得た資金によって、住宅をリフォームすることなどで価格操作を行い、宿泊料は毎年のように高騰する結果、巡礼者が住民に依存せざるをえない状況も生まれている。 このように、巡礼の受け入れをめぐってことごとく優位に立ってきたユダヤ人側に対して、唯一効果的に対抗することができているのは、行政ではなく、したたかに振舞う住民なのである。 ウマニ巡礼をめぐる諸問題と展望 ユダヤ・ウクライナ関係を中心に巡礼を取り巻く葛藤の諸相を概観してきたが、以下ではこうした葛藤を、地域経済と国際関係、国民国家とディアスポラ、そして巡礼と観光という三つの基本的な対立構造からさらに分析してみたい。 (1)地域経済と国際関係 独立以降のウクライナにおいて、ウマン巡礼は、地方経済の活性化や国家財政の伸張といった対内的国益と、「民主国家」としてのイメージ作りと西欧諸国への仲間入りといった対外的国益との間の葛藤の主要な舞台となった。 地方行政から再三にわたって出された、国外からの巡礼の統制がウクライナの国益を守る上で不可欠であるとの認識は、初期段階において政府に共有されていたとは言いがたく、こうした危機意識は地方から中央へと徐々に浸透していったことがうかがえる。 一方、ウクライナ政府が対外イメージを優先し、巡礼の統制をめぐって妥協に甘んじてきたことは、長期的視点に立てば、見返りも大きいものであったかもしれない。というのも、近年、国内のマイノリティ政策におけるウクライナ政府の努力は、国外の人権団体などからも一定の評価を受けており、それがウクライナの民主体制の定着化に対する国際的認知にもつながっているからである。 (2)国民国家とディアスポラ 1990年代末に噴出した抗議の声に象徴されるように、ウマニは、ユダヤ人巡礼の復活を通して、ウクライナの民族主義者にとっては、ユダヤ人という「外敵」を駆逐した英雄都市という象徴的な意味合いを新たに帯びるようになった。 こうした民族主義的イデオロギーは、国際的イメージを意識しつつ民族問題に冷静に対処する政府や、巡礼を生活の糧として重視する聖地周辺の住民には基本的に共有されてはいない。ただし、財力と国際的政治力を背景にした巡礼者側の地域住民や国家に対する配慮に欠けた振る舞いが過度に見過ごされれば、民族主義者らの主張が政府や国民に支持されないとは言い切れない。 一方、とりわけウクライナ西部の都市をポーランド人が築き、ユダヤ人がその発展を担ってきたという歴史的事実に鑑みると、ユダヤ人はウクライナの歴史とは切っても切れない存在であった。それゆえ、ユダヤ人住民がほとんどいなくなった町でユダヤの伝統が復活したこと自体が、ウクライナという土地がもつ民族的多様性の再認識につながる契機ともなりうる。 ナフマン廟周辺の土地は、ウクライナ大統領令によって、「歴史・文化センター」としての公式の地位を得た。しかしながら、現在にいたるまで、誰にとって誰のための「歴史・文化」であることであるかという重要な問題は、十分には認識されなかったし議論されてこなかった。この意味で、国民国家とディアスポラとの歴史・文化的対話こそが、巡礼制度の正常化に向けた必要不可欠なプロセスとなろう。 (3)巡礼と観光 世界会議は当初から巡礼地整備においてヘゲモニーを確保する姿勢を強く見せたが、その根底には、自分たちの宗教的遺産を自分たち自身の手で管理したいという宗教的動機があった。これに対して、ウクライナ側はそもそもの初めから、ユダヤ教の聖地巡礼を、国庫を潤沢にしうる観光地としてしか認識していなかった。巡礼者側とウクライナ側との対立の源泉は、両者のこうした認識のズレにあったと言える。 観光地の住民は、その土地の景観の美しさや伝統文化といった価値を観光客に売りその見返りを得ることで、ホストとしての面目を保つ。しかし、ウマニでは、巡礼者は、ユダヤの聖地に祈りにくるのであって、ウクライナの自然やウクライナの文化に触れにくるわけではない。その結果ホスト・ゲスト関係も純粋に金銭的側面に限定されることになり、こうした疎外関係がしばしば摩擦を生み出す原因となっている。 しかし、この点については希望がないわけではない。巡礼の復活から20年が経とうとする現在、巡礼者の社会層も多様化し、自然を愛し住民の生活様式に関心をもち、肯定的な価値を見出すような、より開かれた人的交流もわずかながら散見される。また、毎年の宿泊行為を通して常連化した結果、対等な立場で接することを通して、互いを尊重した関係が確実に浸透している。こうした好ましい関係構築に向けた徴候は、ウマニ市長の秘書官による次の発言にも読みとれる。 「我々の今日の課題は、ハシディームを受け入れるだけでなく、異なる信仰をもった人々に対し、寛容で、温和な態度を取るように心がけることです。たしかに、この祭の期間は、平穏ではありません。いくつか事件もありましたが、どれも個々の人間のレベルで起こったことです。『ハシディームは我々の人間だ。彼らは毎年ここを訪れる。ウマニとハシディームとは切っても切れない関係にある。』市民は大体こんな考えをもっているのです。」 おわりに ディアスポラのユダヤ人共同体は、「国家の法は法なり」というタルムードの原則に則って居住国家の法を遵守してきた。そして、その現状がユダヤ人にとって過酷なものとなり、生命が脅かされる危険に直面したときに限って、ユダヤ人社会は伝統的に、国家権力に対する「根回し」を通して、抑圧的な法の無効化や、自分たちに対するイメージの改善に努めてきた。 こうした外面的恭順と抑制された影響力の行使からなる二重の戦術は、居住国家の住民や国家権力に社会的にも政治的にも支配されるディアスポラにおいて、ユダヤ人が生き残るための重要な手段となってきた。 しかしながら、ウマン巡礼をめぐってユダヤ人側がウクライナ側に対して見せてきた対応には、むしろこれとは正反対の傾向を読み取ることができた。巡礼地における規則や因習に適合しようとする努力はあまり見られず、かえってホスト側を自らの交渉の仕方に適合させようとする志向が強く見られるのである。こうしたユダヤ人側の強気の姿勢は、彼らの国際的な経済力や政治的発言力の大きさとともに、ユダヤ人が政治的ヘゲモニーの担い手であったイスラエルにおける長年の経験を反映していると考えることもできる。 一方、ウクライナ側は、自らの土地において、いわば「周縁的な」ホスト役として、「支配者然とした」ゲストの振る舞いに譲歩を繰り返してきたが、経済的利益や国際社会におけるウクライナの肯定的イメージの保持のためには、それだけの譲歩も十分釣り合ったからである。 こうした政治・経済的に不均衡なホスト・ゲスト関係は、本質的に不安定なものであろう。しかしそれと同時に、両者間の競合する利害関係や相互依存関係が、両者の関係を、全般的な安定に導いていることもたしかである。 いずれにしても、ウマニのユダヤ人巡礼をめぐる問題は、今日のウクライナ人とユダヤ人の関係を理解するための指標であるだけでなく、現代ウクライナにとっての良好な対外関係のための試金石ともなっていると言えるだろう。 *編集部より・本稿の著者のさらに詳しい考察は下記のサイトで読むことができます。http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/kokai/2007/2007prog.html#nittei |
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