更新日:2007年10月16日(火)
特集
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プロフィール:1972年横浜生まれ。総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程修了(学術博士)。在イスラエル日本大使館専門調査員を経て現職。 はじめに ウクライナの中心にウマニという町がある。この街は、19世紀初頭にポーランド人領主ポトツキー公爵が愛妻ソフィアのために造園したソフィエフカ公園で知られるが、最近この町の一角に、もう一つの名所が現れた。ブレスラフのラビ・ナフマンと呼ばれる、ユダヤ教の有名なラビの墓である。わずか十数年前までは、地元住民にすら知られていなかったこの墓は、いまや、毎年、イスラエルをはじめとする世界各地から数万人のユダヤ人巡礼者を集める、イスラエル国外最大のユダヤ教聖地となっている。 本稿では、ウクライナの大地に突如として出現したユダヤ教の聖地をめぐる事例を通して、ソ連崩壊後に生じたユダヤ・ウクライナ関係の再編について考察してみたい。 ハシディズム巡礼の復活 ペレストロイカとソ連邦の崩壊は、ユダヤ人社会の地勢図を劇的に変えた。1989年に移民制限が撤廃されて以来、およそ150万人ともいわれる大規模なユダヤ人移民の波が発生し、そのうち約100万人はイスラエルを居住先に選んだ。一方、本国ではユダヤ人共同体が次々と復活し、教育や福祉の拡充、文化、宗教の復興が精力的に行われ、アイデンティティの再編が進んでいる。こうした動向についてはすでに広範な研究がなされてきたが、これまでまったく取り上げられることのなかった現象がある。それが、本稿で取り上げる、東欧諸国におけるハシディズム巡礼の復活である。 ハシディズム(ユダヤ教敬虔派)とは、18世紀中葉のウクライナ中西部で誕生したユダヤ教史上最も成功した分派運動であり、その影響は、20世紀初頭までに東欧全域に及んだ。最大の特徴は、律法学者としてのラビに代わって、義人(ツァディク)と呼ばれるカリスマ的な宗教指導者に絶対的な信頼を置く点にあり、とりわけ願いごとをもって義人やその墓を訪れる習慣が大衆的な人気を誇った。ハシディズムは、ユダヤ人虐殺、移民、ロシア革命などの政治的動乱により、20世紀に入ってから著しく衰退したものの、ホロコーストを生き延びた少数の集団がニューヨーク、エルサレム、パリ、ロンドンなどの大都市に閉鎖的な社会を形成し、今日ではかつての繁栄を取り戻すまでになっている。 ペレストロイカとともに東欧各地で復活した巡礼は、ハシディズムの信徒たちにとっては、義人廟を媒介にして、かつての先祖の地との地理的・精神的絆が回復されたプロセスと考えることができる。こうした聖者廟は、ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、ルーマニアなど東欧全域に点在するが、中でも異彩を放っているのが、ウクライナのウマニに眠るブレスラフのラビ・ナフマンの墓への巡礼である。 ウマニ巡礼の歴史 ハシディズムの開祖イスラエル・バール・シェム・トーヴの曾孫として、ウクライナの小村メジボジに生まれたラビ・ナフマン(1772−1810)は、念願のイスラエル巡礼を果たした後、ブレスラフ派と呼ばれるハシディズムの一流派を創始した。早くから同時代の最高の精神的指導者としての自覚を高めていったナフマンは、ユダヤ民族の贖い主としての使命感に取り憑かれ、その言動はやがてメシア主義的な性格を色濃く帯びるようになった。だが、志半ば、30代の若さで結核に冒された彼は迫り来る死を意識し始め、晩年の活動を専ら自らの教えの永続性のために捧げた。 ラビ・ナフマンの死の翌年、師の遺言に従った弟子たちがウマニに集い、巡礼の伝統が始まった。ブレスラフ派の教えは19世紀を通じてポーランドやパレスチナにも広がり、新たな信徒たちはみな国外からウマニを目指すようになった。だが、20世紀初頭の度重なる動乱とともに、ブレスラフ派の基盤も国外に移り、さらにウクライナがソ連邦に編入されると、巡礼の存続自体が著しく困難になった。 ユダヤ人墓地は独ソ戦のさなかに爆撃で破壊し尽くされ、ナフマン廟の位置さえも一旦は見失われかけた。さらに戦後には、墓地の上に住宅地を建てる決定が下され、墓地の痕跡すらも人々の記憶から抹消されようとしていた。しかし、戦争を生き延びたハシディームの一人が荒地となった墓地から記憶を頼りにナフマン廟の位置を確認し、そこにセメントで印を残したおかげで、ソ連国内で密かにユダヤ教の伝統を守っていた一握りのハシディーム(ハシデイズムの信奉者)が、戦後も密かに巡礼を行なうことが可能になった。 一方、ナフマンの墓への巡礼は、「雪解け」の時代にアメリカとソ連との外交的協議の対象ともなり、1964年には、アメリカ国籍の11人のハシディームに巡礼の特別許可が降りた。だが、これは一度きりの例外的な措置となり、その後は、旅行者を装ったハシディームが非合法的な巡礼を散発的に成功させるに留まった。したがって、ウマニを訪れて師の墓前でひれ伏すことは、ブレスラフ・ハシディームの圧倒的多数にとっては夢のまた夢であった。 大衆巡礼の整備 ところが、ペレストロイカとともに巡礼をめぐる状況が一変する。1985年、アメリカ国籍の一行53 人に巡礼の許可が降りたのを皮切りに、渡航規制が徐々に緩和され、1989年には巡礼者数が1300人を越え、大衆巡礼の到来は告げられた。 1990年代に入り、一連の自由化政策が中央から地方に浸透し始めると、巡礼の受け入れ態勢も様変わりする。巡礼が地域経済にもたらす高い経済効果に目をつけたウクライナ共和国議会が旅行規制を大幅に緩和する方向性を模索し始めると、国内外の二つの組織が巡礼に関わる問題全般に直接介入するようになった。 それが、ウマニ市議会とブレスラフ・ハシディーム世界会議である。ウマニ市議会は、地元有力企業と「ウマニ協会」なるトラストを設立した上で、宿泊施設の確保や巡礼施設の整備を一手に引き受け、巡礼から得た収益により逼迫した市の財政事情を改善しようとした。 1991年12月21日にソ連が崩壊し、旧ソ連からの移民促進に多大な関心を寄せていたイスラエルは、わずか4日後にウクライナの独立を承認、翌26日にウクライナは他の旧ソ連諸国に先駆けてイスラエルと外交関係を結んだ。 ウクライナの初代大統領クラフチュークは、92年に訪米、93年にはイスラエルを表敬し、反ユダヤ主義との闘争や国内のマイノリティ権利擁護を大々的にアピールした。こうしたアピールは、独立後間もないウクライナ政府が対外イメージを刷新して西欧の仲間入りを果たす上で、イスラエルと国内のユダヤ人社会との関係改善が重要な鍵であったことを示している。 一方、時代の変化を敏感に察知したブレスラフ・ハシディーム世界会議(以下、「世界会議」と記す)は、ナフマン廟周辺の土地返還をウクライナ政府に要請した他、旧ソ連崩壊後に生じた政治・経済的空白を利用して、巡礼者の受け入れと聖地開発を有利に進めるべく、キエフの新興企業と独自に契約を結び、同契約の履行を側面支援するよう、イスラエルを通じてとアメリカの外交ルートを通じてウクライナ政府に強く働きかけた。 西側との間で面倒を抱えたくなかったウクライナ政府はこの契約を尊重したが、これによって市議会と地元企業は大きな打撃を受け、有名無実化した「ウマニ協会」は解散を余儀なくされた。 聖地の位置づけと開発形態 巡礼受け入れに関し二次的な位置に甘んじることになったウマニ市議会は、巡礼地と巡礼者受け入れの問題を市議会が特権的に処理できる環境を確保するため、巡礼地周辺の住民を立ち退かせ、巡礼地周辺の土地を国有地として指定するようクラフチューク大統領に支援を要請した。これを受けて、1994年には「チェルカシ県ウマニ市における歴史文化センターの創設に関する」ウクライナ大統領令が発布された。 しかし、この大統領令は国有化なき国有化宣言に等しく、巡礼問題の抜本的な解決とはほど遠かった。ナフマンの墓が所在する旧ユダヤ人墓地の真上には、周囲には二つの民家のほか、8階建ての高層アパート一棟半がそびえたち、100世帯以上が普段どおりに暮らしていたが、政府は財政難のため、住民の立ち退きなどの措置は一切とれなかったのである。 さらに、大統領令は、当初から聖地の返還と聖地の裁量権の独占を主張していた世界会議を無視したことから、事態をさらに悪化させた。ウクライナの私企業と再び契約を結んだ世界会議は、8000人を収容できるヨーロッパ最大と言われるシナゴーグの建立など、独自の聖地開発に乗り出し、行政による度重なる注意勧告を無視する形で巡礼を断行しようとした。 ウマニ市議会は、世界会議側の違法行為に対し、巡礼の中止ないし巡礼者数の制限を関係各省庁に要請したが、そうした制限措置はウクライナの国際的イメージの低下を招くというウクライナ政府の懸念が優先され、巡礼は結局なし崩し的に断行された。 結局、ウクライナ側は妥協を余儀なくされ、世界会議を聖地開発のパートナーに積極的に取り込むことに方針転換した。1996年、市議会は世界会議と提携して「国際福祉基金」を立ち上げ、世界会議がブレスラフ運動の世界的権威であることを確認するとともに、「センター」の敷地の賃貸契約を世界会議と結ぶことで聖地返還の要請を当面は封じ込めた。 一方、世界会議はこの年、13万ドルで聖地周辺の民家二棟を購入し、本格的な聖地開発の地歩を固めた。こうして、地方行政の監督の下、国外の宗教団体が国有地の開発の中心的役割を担うという異例の原則が確立されたが、あくまでも独自に開発を進めたい世界会議側と巡礼による収入を少しでも市に還元したい行政側の思惑とのズレは容易には縮まらず、巡礼期間直前まで両者の間でぎりぎりの交渉が行われるのが通例となって現在に至る。 |
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