更新日:2007年10月10日(水)
特集
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3.ミラン・ホッジャの「中欧連邦」構想 ここでもうひとりの東欧の政治家を紹介しよう。ミラン・ホッジャ(1878−1944)というスロヴァキア人の政治家で、ハプスブルク帝国時代からスロヴァキア人の指導者として活躍し、ハンガリー王国議会議員の経歴があった。 チェコスロヴァキア独立後は、同国の最有力政党であった農業党の指導者として活躍し、農業相、教育相、首相を歴任した。第二次世界大戦が勃発すると西欧に亡命し、ナチスの勢力下におかれた祖国の回復のために活動したが、1944年に米国で没した。 ホッジャは、両大戦間期に活動したグリーン・インターナショナル(正式には国際農業ビューロー)の活動にかかわりを持っていた。 この農業政党を中心とする国際組織は西の「自由放任主義」と東の「コミンテルン」(ソ連共産党を中心とする共産党の国際組織)の二つの脅威に対抗するという性格をもっており、東欧の農業政党の連携を重視する立場を採っていた。 そのような経験に基づいてホッジャは第二次世界大戦中に「中欧連邦」を提唱した。1942年に出版されたその著書の中でホッジャはロシア、ドイツおよびイタリアの間に位置する地域、具体的にはポーランド、チェコ=スロヴァキア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、ギリシアからなる地域での連邦国家の建設を提唱していた。ホッジャはこの地域を「中欧」と呼んでいたが、これはわれわれの東欧とほぼ一致する地域といえる。 この時期、例えばシートン=ワトソンのように、この東欧地域の諸国の独立の回復を支持する人びとが連合国側にもいたが、同時にこの地域自身の秩序維持能力に懐疑的な人びとも少なくなかった。例えば、英国外務省のブルース・ロックハートという外交官は「自分自身を防衛できない小国は平和への脅威であり、戦後に築かれる新しい世界において国家はより少なく、より大きなものでなければならない」と述べていた。ホッジャの「中欧連邦」構想はこうした懐疑論に応えようとするものであった。 ホッジャはチェコ人、スロヴァキア人の亡命政治家グループ内での勢力争いに敗れたため、その議論はその後の政治の展開に直接影響を持つことはなかった。ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政権で主導権を握ったのは元大統領のエドヴァルト・ベネシュであった。ベネシュはホッジャと対立したが、そのベネシュもポーランド亡命政権指導者シコルスキとの間で、両国が戦後に国家連合を形成するための交渉を進めたのである。ただし、この交渉は最終的にはソ連の反対にあって、実を結ぶには至らなかった。 第二次世界大戦中にソ連は次第に東欧地域を自己の安全保障にとって重要な地域として位置付け、そこでの勢力圏形成に向かうことなる。戦後、ソ連が東欧での勢力圏形成を推し進め、またそれが引き金のひとつとなって東西冷戦が始まった。こうして1947〜48年頃までに社会主義の「東欧」が生まれ、それは1980年代末まで続いたのである。 まとめ 国際政治という領域でみると、冷戦期に東欧と呼ばれた地域と重なる地理的な空間をひとつの地域とする主張はそれ以前から存在していた。ただし、その地域は必ずしも東欧と呼ばれていたわけではない。その地域認識の基礎には「ドイツとロシアの間にある空間」で、経済と政治の両面で不安定な地域というものであった。 ドイツの勢力拡張論者達の「狭間の欧州」論、英国のシートン=ワトソンの「東欧」、ソ連の「安全保障圏としての東欧」といったものは他者認識の典型であり、それぞれの利害に結びつけて「東欧」をひとつの地域として位置付け、そこでの秩序のあり方を論じていた。また、それらは別々に存在したと言うよりも、歴史の中で連続して存在したというべきであろう。 それと同時に、東欧の人びとの中にもまたこの土地をひとつの地域として論じるものがいた。それは、第一次世界大戦期に、ハプスブルク帝国の解体と新しい国民国家の建設を求めた人びとであり、また第二次世界大戦期に祖国の解放を目差す人びとであった。それは「自己認識の東欧」と呼べるが、同時にそれは強く「他者認識としての東欧」を意識するものであり、そこにその主張の特徴と弱さもあった。 第一次世界大戦期からの流れの中で、東欧を自己認識と他者認識の両面からとらえ直す必要がある。「ドイツとロシアの間の不安定な地域」としての東欧とその後の「社会主義の欧州諸国」としての東欧とは連続するものとしてとらえる必要がある。 この地域の社会主義の終焉は東欧の消滅を意味しないのである。東欧諸国の多くがEUとNATOに加盟した今、この地域を取り囲む国際環境は変容しつつある。しかし「ドイツとロシアの間の不安定な地域」という地域認識がすでに過去のものになったといえるのかどうかについては、もう少し時間をかけて見る必要があるように思える。 |
| 補遺 「平成19年度 北海道大学スラブ研究センター公開講座」開講にあたって‥‥家田 修(北海道大学スラブ研究センター教授) 半世紀続いた社会主義時代に終止符を打った1989年の東欧革命。その後20年近くが経過し、今年は2004年の第一波8カ国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコ、スロヴキア、ハンガリー、スロヴェニア)に続いて、ルーマニアとブルガリアが欧州連合(EU)への加盟を果たしました。 もっとも振り返って見るに、欧州政治が東へ西へと動くのにあわせ、東欧も左往右往の連続でした。もちろんロシアや西欧がこの地域をどう認識し、どう扱おうとしたのかを抜きにして、東欧地域を語ることはできません。しかし他方で、もう一度地域研究の原点に立ち戻って、地域の人々が自分たちをどう認識していたのか、歴史の節目節目に地域の人々が自分たちをどう作り直そうとしたのか、内と外との関係を人々がどのように結びつけようと、あるいは切り離そうと考えたのか、東欧というのはいったい何処から何処までなのか、こうした問題を歴史と文化を中心に問い直すことは、地域を知る上で基本の基本です。 幸いにもスラブ研究センターは2003年から大型の研究助成を受けて、大学院を終えたばかりの優れた人材を全国から募り、若手研究者として研究に専念できる環境を整備しています。今回の連続講座では研究の最先端にいるこうした若い力を積極的に取り入れ、いままでとは一味も二味も違う東欧論を用意しました。 第一次世界大戦後の「戦略的東欧」、ユダヤ人と東欧社会、受難のベラルーシ、バルカンのムスリム、オーストリアのクロアチア人、多様性のウクライナなど、一回一回が興味津々の講義であり、全体として大きく東欧像が膨らむはずです。 題して「拡大する東欧」。スラブ研究センターの講座としては1995年以来の東欧特集ですが、旧ソ連の西部地域へと拡大した東欧が俎上に載せられます。 |
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