更新日:2007年10月16日(火)
特集
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プロフィール:1950年、札幌生まれ、 1975年東京都立大学法学部卒、 1977年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、 1982年一橋大学大学院法学研究科博士課程後期単位取得退学。広島大学法学部教授、北海道大学スラブ研究センター教授・センター長を経て、現職。 専門:東欧政治史、チェコ・スロヴァキア近現代史 はじめに 1947〜48年頃から1980年代末まで続いた米ソ冷戦の時代に、「東欧」とか「東ヨーロッパ」という地域名称は、ソ連の西方に位置し、社会主義体制を採っていた欧州諸国という意味で使われていた。具体的には、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアの8か国である。 この地域の社会主義体制は1989年以降、雪崩を打って崩壊した。それ以後、しだいに「社会主義のヨーロッパ」を意味することの多かった「東欧」という地名は使われることが少なくなり、それに代わって「中欧」とか「中・東欧」というような社会主義との繋がりをあまり意識させない地名が使われることが多くなった。 とはいえ、「東欧」がつねに「社会主義」と結びつくものとして理解されていたわけではない。文化史の世界で「東欧」はスラブ系言語圏を意味する地域名称として、宗教史の世界では東方正教会圏を意味する地域名称として使われている。この場合、ロシア語はスラブ系の言語だし、またロシアの多数派の宗教はロシア正教なので、この「東欧」にはロシアが含まれることになる。 また、経済史の領域ではエルベ河で欧州を東西に二分し、その東半分を「東欧」と呼ぶ場合がある。「東欧」という地名はかなり多様に使われている。 しかし、ここではそのようなさまざまな意味での「東欧」を語るのではなく、あくまで「国際政治史」という領域で、冷戦時代に社会主義体制を採っていた欧州諸国の領域と重なる地域として考えることにしたい。 冷戦時代に「東欧」と呼ばれた地域とほぼ重なる空間は、それ以前の時期においても、「東欧」とはべつの呼称でまとまったひとつの地域として捉えられていた。そのような地理的な空間の認識は第一次世界大戦の時期にハプスブルク帝国の解体を唱えていた人びとが共有していたものであった。ここでは、そのような「もうひとつの東欧」を話題としよう。 1.もうひとつの「東欧」 英国人の著名な歴史家、ヒュー・シートン=ワトソンは1945年に『両大戦間期の東欧―1918〜1941年』という本を出版している。この本は長い期間にわたって東欧の勉強をしようとする若い研究者の必読文献とされていた。 第二次世界大戦最後の年の出版だが、実際には1943年あたりに執筆された。いずれにせよ、そのタイトルからわかるように、「東欧」が社会主義体制を採る以前の時期に、この英国人の歴史家はほぼ同じ地域を「東欧」と呼んでいた。シートン=ワトソンによれば、「東欧」とは「ドイツとロシアの間にある地域」で、「北はバルト海で、南は地中海で―南東は黒海とエーゲ海で、南西はアドリア海で―縁取られる」地域であった。 ここで「地域」という言葉について一言だけ説明しておこう。この「地域」は英語のリージョンregionに対応するものとして使うが、それは「ある区切られた地球上の空間およびその内容物(自然、人間の両方を含む)で、その特徴や内的な結合によってその外と区別できるもの」というような意味を持つ。 この「地域」はある国家の一部分である「小さな地域」かもしれないし、いくつかの国家を含む「大きな地域」かもしれない。またいくつかの「小さな地域」が国境を跨いで結びついている場合もある。いずれにせよ、「小さな地域」でも「大きな地域」でも、「地域」を論じることはつねに一定の政治性を持つ。 「小さな地域」の独立や自治の主張がそこに含まれることが多く、また「大きな地域」論はその地域の国際統合や国際協力の提唱と重なっていることが多いからである。 ある「地域」を語るということはその内と外を区別するということであり、その区別をするということの中に、一定の戦略思考が働いているのである。たとえば、上で紹介したシートン=ワトソンの「東欧」論は、この地域の政治的・経済的な不安定さが第二次世界大戦の原因の一つであったという認識に基づいており、戦後の欧州の安定のためには、この地域の安定が不可欠であるという主張を含んでいた。 この時点でシートン=ワトソンは米ソ冷戦がまもなく始まるというようなことは頭になく、米国とソ連を含む連合国がこの地域の安定のために協力する必要があると考えていたのである。「ドイツとソ連(ロシア)との間に位置する政治と経済で不安定な地域」というのが「もうひとつの東欧」ということになる。 では、そういう「東欧」認識の原型はどこにあったのだろうか。なお、以下で括弧をつけずに東欧という言葉を使うが、それはシートン=ワトソンの東欧と同じ意味で使うことにする。 2.T.G.マサリクと「小さな国民の地帯」 T.G.マサリク(1850〜1937)はチェコ人の哲学者で、プラハ大学教授という地位にあったが、同時にオーストリア帝国議会議員でもあった。第一次世界大戦が起こると西欧に亡命し、そこでチェコスロヴァキア独立運動を指導し、初代チェコスロヴァキア大統領(1918〜1935年)に就任した人物である。 第一次世界大戦勃発前のマサリクの発言の中には東欧をひとつの地域とする発言は見られなかった。そもそもマサリクはハプスブルク帝国の解体を公然と唱えることはしていなかった。帝国の存在はこの地域の安定に不可欠であり、マサリクはむしろ帝国の存在を前提にして、その分権化や民主化を求めていた。 しかし、第一次世界大戦が勃発すると、ハプスブルク帝国のドイツ帝国にたいする従属が深まり、その分権化や民主化の実現は不可能になったとマサリクは判断し、国外でのチェコスロヴァキア独立運動を始めた。 ハプスブルク帝国の解体という展望を視野に入れたとき、東欧という地域が姿を現すのである。マサリクが1915年10月にロンドンで行った演説の中に、次のような一節を見出すことができる。 トリエステ―サロニカ―コンスタンチノープルから北のダンツィヒ―ペトログラードにいたるところに、(中略)おびただしい数の小さな国民(英語のネイションnationは「国民」とも「民族」とも訳すことができ、むしろ「民族」と訳したほうがいい場合も多いのであるが、ここではあえて「国民」とする)がいて、それらはドイツ、オーストリア、トルコ、ロシアの支配のもとあったし、今もあるのです。この地帯は、東プロイセン、オーストリア=ハンガリー、バルカン諸国、ロシア西部地域からなり、国民の反目の実際の特有な中心となっています。(中略)現在の戦争が勃発したのはまさにここでしたし、全欧州にとって継続する不安定と騒乱が生じる場所なのです。 ここでマサリクは東欧という地名を使っていないが、明らかに東欧と重なる空間をひとつの地域として語っている。さらに、マサリクは大戦末期の1918年に出版された『新欧州』という冊子の中でこの地域を「小さな諸国民の地帯」a zone of small nationsと呼び、「西と東の間、より厳密にはドイツ人とロシア人の間」で、「ラップランドで始まる北からギリシアへと下る」領域として論じている。 1915年10月の演説あたりを基点にマサリクはこの地域の再編を繰り返し論じることになる。ハプスブルク帝国の解体は、ポーランドの三分割領の統一、南スラブの統一(これは第一次世界大戦後にユーゴスラヴィア国家の形成という形で実現する)という問題と結合して、東欧地域の大再編という議論に繋がったのである。 ハプスブルク帝国が解体された場合、ドイツとロシアの間にチェコスロヴァキアを含む中小国家群が独立することになる。それはかえってこの地域の不安定さを増すことになるのではないか。 このような疑念は英仏米の連合国の指導者や世論に根強くあった。それにに応えるためにマサリクはこの地域の新興諸国が互いに協力してドイツに対抗しながら自ら安定した地域を作ることが可能であると主張し、またそのために連合国の支持を求めたといえる。マサリクは東欧という地域名を使っていないが、こうして東欧地域を意識した主張を始めたのである。 このような東欧認識はマサリクに固有のものではなく、この時代にハプスブルク帝国の解体を主張していた人々が共有するものであった。たとえば、ポーランド人指導のひとりロマン・ドモフスキも同じような地域認識を持っていた。ドモフスキは1917年に出版された冊子の中で「西欧諸国との知的、経済的、政治的親交があれば、非ドイツ系中欧non-German Central Europeは欧州の均衡と将来の平和へのもっとも有効な保障となろう」と述べている。この「非ドイツ系中欧」の地理的な範囲はマサリクの「小さな諸国民の地帯」とほぼ重なっていた。 マサリクやドモフスキの主張は1918年以降、連合国の支持を受けるようになり、1918年末にハプスブルク帝国は解体され、チェコスロヴァキアは独立国家となった。あわせてポーランドの統一と独立、南スラブ国家の統一も実現した。 しかし、マサリクやドモフスキたちが主張した東欧の新興諸国全体の提携や協力は実現しなかった。新たに独立した諸国の間では国境問題などをめぐり対立が続いたからである。マサリク大統領の指導するチェコスロヴァキアはフランスと同盟関係を維持しながら、第一次世界大戦後に形成された国境を維持することで利害をともにするルーマニア、ユーゴスラヴィアと小協商と呼ばれた同盟関係を築き、戦後秩序を修正しようとするハンガリーと対峙した。 また、チェコスロヴァキアとポーランドの間では領土めぐる対立が続いた。そのような国際情勢の中で、第一次世界大戦後のマサリク大統領はこの地域全体の協力ということはあまり言わなくなった。 とはいえ両大戦間期(ふたつの世界大戦の間の時期)に、東欧地域をひとまとめにとらえる視角が失われたとはいえない。地域内の厳しい対立の結果として、この地域の中の人びとによる東欧地域という地域認識は弱まったと考えられるが、他者認識、つまり東欧の外から東欧をひとつの地域として見る眼差しは存在していた。 例えばドイツでは、後にナチスの思想に連なるような流れの中に、ドイツとソ連の間の地域を自己の勢力圏と見なすグループがあり、その人々はその地域を「間欧」Zwischeneuropa、つまり「狭間の欧州」と呼んだ。この地理的空間はまさに東欧と重なるものであった。シートン=ワトソンはまさにこの「間欧」を念頭に置いて考えていたのだが、それに対応する適切な英語がないので、それを東欧と言い換えたのである。 |
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