更新日:2007年9月10日(月)
ブラキストン線
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今年はとくに異常だ。梅雨の時期がはっきりせず、七月に台風が本土を直撃し、八月に入るとウダるような暑さで、朝はちょっと寝坊するともう外へ出られない。家にいても、何もする気がおこらない。 話題も冴えない。犯罪の日常化、殺人の異常さ、飲酒運転による事故死、朝青龍問題、そして安倍政権下の参議院選挙大敗と改造内閣周辺の話題、いずれも冴えない。 そうしたなかで、甲子園の高校野球だけは昨年に引きつづき、明るくすがすがしい話題を提供してくれた。昨年は早実のハンカチ王子こと斎藤佑樹選手と、駒大付属苫小牧高の田中将大選手の、超人的投手戦という個人プレーの話題だったが、今年は、佐賀北高という県立高校のチームプレーのみごとさという話題である。 ある新聞は試合のなかで佐賀北高のプレーは“進化”していったという表現を使っていたが、まさに、延長戦あり、再試合あり、強豪帝京との劇的な逆転劇あり、優勝をきめた決勝戦での劇的な逆転劇を含めて、たしかに佐賀北高のチームは、真剣勝負のなかで進化していったのだろう。それぞれの役割意識、瞬間での決断力、虚を衝く攻撃、冷静な防御、まさに人間社会でのあらゆるドラマが、こうした演技のなかに含まれている。 佐賀北高が一県立高校として、学業とスポーツの両立を目指す、普通高校だということも嬉しい。商業主義の浸透も無理もないが、野球に特化した学校でない普通校が健在だったことはこよなく貴重である。 日本の社会は、まだ中核にこうした少年たちを温存し、育んでいたのだ。こうした少年たちが健やかに育ち、連帯感を育ててゆくならば、まだ日本には未来がある。日本のメディアが繰り返す、家族、学校、近隣社会の崩壊という病理現象も半面の事実だが、高校野球の示す少年たちのすぐれたプレーもまた、日本の将来を占う貴重な素材にちがいない。観客たちの感動と興奮はそうした希望への祈りでもあるのだ。 賭けるべき子孫たちの可能性 身体論というテーマが流行したことがある。たしかに観念の世界だけが話題になってきたのには問題がある。残念ながら身体論の中味について私は知らない。しかし、「健康な精神は健康な肉体に宿る」といったレベルのことなら、私も関心があるし、理解もできる。 野球とサッカーは欧米渡来のものだが、日本人は近代社会のなかで消化した。団体競技としてすばらしい、バスケット、バレー、ラグビーと多様な変化ももつジャンルである。日本には、他に相撲、柔剣道、合気道、空手といった伝統技がある。いずれも独自の奥行きをもつ技である。それらはいずれも学業とは別の方向で、学問とはちがった身体の鍛錬と精神性をもっている。 豊かな社会の到来は、それだけでは人間の幸福を保証しない。むしろ、豊かな社会はさまざまな、社会病理を伴うことがわかってきた。そうした障害を超えて、高校野球は人間の可能性とありうべき将来を雄弁に語っている。われわれはわが子孫たちの可能性に賭けてみたいものである。 |
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